高橋 雪子
高橋 雪子(80)
高橋 雪子さん(80) 爆心地から約1.4キロの三菱兵器製作所大橋工場で被爆 =福岡市西区野方3丁目=

私の被爆ノート

閃光と爆風 地下室に

2005年10月6日 掲載
高橋 雪子
高橋 雪子(80) 高橋 雪子さん(80) 爆心地から約1.4キロの三菱兵器製作所大橋工場で被爆 =福岡市西区野方3丁目=

当時、私は二十歳。三菱兵器製作所大橋工場の勤労課に勤務していた。あの日は朝から青空が広がり「暑い一日になりそう」と思いながら、いつものように長崎市寺町の自宅を出て電車で出勤した。まさか悪夢のような一日になるとは思いもよらなかった。

出勤してすぐに、勤労課所属の学徒動員の女学生三人とともに、鉄筋コンクリート造りの技術部棟地下室で工員名簿に必要事項を記入する作業をしていた。つかの間の休憩で横になっていた私の目に突然、閃光(せんこう)と爆風が地下室の通気口から飛び込んで来た。何が起こったのか分からず、辺りを見渡すと一面に工員名簿が散らばっていた。

私たち四人はけが一つなかったが、しばらくすると、体中にガラス片が刺さり、血だらけの工員らが次々に地下室に避難してきた。その時、爆弾が落ちたことを知った。

外へ出て、がくぜんとした。工場は見渡す限りがれきの山。むき出しの鉄筋はぐにゃぐにゃに曲がり、所々に火の手が上がっていた。木造平屋の勤労課棟も跡形もなく、近くには数人が集まっていた。私は人づてに親しかった同僚や上司のことを聞き、二人を捜しに工場を後にした。

神学校近くで足を負傷した上司と、同僚を見つけた。夕方、上司の治療のため、三人で六地蔵近くに停車していた救護列車に乗り込んだ。車内は全身にやけどを負い血だらけの人、既に死んだ人、気が狂ったように叫ぶ人。鼻を突く異臭が漂い、地獄のような光景だった。

救護所のある諫早で下車したが、人であふれ、上司は手当てを受けることができなかった。国民勤労動員所など二日間、諫早で寝泊まりし、十一日朝、家族の安否確認のため、三人は列車で長崎へ向かった。

爆心地近くに自宅のあった上司の家族は全員亡くなり、油屋町の同僚と私の家族は幸いにも全員無事だった。原爆の悲惨な光景は私の記憶の中には断片的にしか残っていない。目に入れないよう努めたのか、もしくは忘れようと懸命だったのかもしれない。
(福岡支社)

<私の願い>
大国のエゴでしょうか。世界にはいまだに三万個の核兵器が残されていると聞き、思っただけでもぞっとする。私たちの悲惨な経験は最後でなければならない。絶対に核兵器が使われることがないよう世界の人々に核兵器廃絶を訴えていきたいと思う。

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