長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

9月に入り症状現れ

2005年9月29日 掲載
石田チヨ子(79) 石田チヨ子さん(79) 爆心地から1.1キロの大橋町で被爆 =北松江迎町猪調免=

長崎三菱兵器製作所大橋工場で庶務をしていた。故郷の口之津を離れ、住吉の寮から徒歩で工場に通っていた。

事務所には五人ほど庶務係がいたと思う。昼が近づき、寮から届く弁当を取りに行こうと、席を立った。その途端、大きな音がして、事務所の屋根が落ちてきた。とっさに机の下に潜り込んだが、コンクリートなどの下敷きになり、身動きできなくなった。

気が付くと、幸運にも手のひらが出るくらいのすき間があり、手を挙げて「助けてー、ここにいます」と叫んだ。工場内を見回っていた男性たちに助け出された。

「口之津に帰ろう」と道ノ尾駅の方角に近い門を目指した。途中、血だらけになっていた挺身(ていしん)隊の女の子を背負い門の所で別れた記憶はあるが、工場内の様子などについては無我夢中で覚えていない。

道中、死んだ母親の胸元で母乳を欲しがる子どもや、死んだ子どもを抱いた母親の姿を目の当たりにし、泣きながら歩いた。大木の枝は折れ、建物は倒壊。あちこちで火の手が上がり、川には馬の死体が流れていた。燃えるような真っ赤な太陽を今でも忘れることができない。

途中、住吉にあった「トンネル工場」で一晩過ごした。

十一日、すし詰めの汽車で口之津に戻った。母は私が死んだと思っていたらしく、「生きていてよかった」と抱き合って再会を喜んだ。肩にガラス片が刺さっていたが、大けがはなかった。

しかし、九月に入ったころ、歯茎からの出血や脱毛、高熱が出て紫斑が全身に現れ南串山の病院に入院した。「もう駄目だ」と言う医師に、「助けてください」と泣きながら頼む母の姿を今も覚えている。祖父は片道約十二キロの道のりを大八車で氷を運んでくれた。輸血などのかいあって、症状は次第に収まり一カ月後に退院した。

髪の毛も生えそろわないまま、人の勧めで年末に結婚した。

しばらくして、母にどうして早く結婚させたのか尋ねると、母は「『主治医にもうこの娘は駄目』と言われた時、一人娘を結婚もさせずに死なせたくないとの母心が出た。私が健康になったのですぐその気になった」と打ち明けてくれた。
(江迎)

<私の願い>
八月九日は丼にお茶をいっぱい入れ、犠牲者ののどの渇きを癒やそうと冥福を祈っている。一瞬にして私たちの幸福を奪う核兵器はいらない。子どもたちに同じ体験、悲しみを味わわせたくない。全世界の人が仲良く暮らせるようにしてほしい。

ページ上部へ