谷口 恵美
谷口 恵美(82)
谷口 恵美さん(82) 被爆地から3.0キロの三菱造船所で被爆 =長崎市風頭町=

私の被爆ノート

遺体への感覚がまひ

2005年9月15日 掲載
谷口 恵美
谷口 恵美(82) 谷口 恵美さん(82) 被爆地から3.0キロの三菱造船所で被爆 =長崎市風頭町=

当時、三菱長崎造船所電機設計課で設計図の写し作業などをする事務員。西上町(現在の長崎市中町)に母、妹と暮らし、大波止から船で対岸の同造船所に通っていた。

原爆が落とされた日は事務所に着いた直後に空襲警報が出され、歩いてすぐの山にあった防空壕(ごう)へ避難した。

警報解除後、事務所へ戻り、あまりの暑さに靴を脱ぎ汗をふいていた時、両脇の窓がオレンジ色に染まった。びっくりして目を閉じ、耳をふさぎ、机の下に隠れた。「ズドーン」と、やや鈍い音がして爆風が生じ、気を失った。気付いた時には周囲に人の気配がなく、机の上の書類は散乱し、窓枠は壊れ、ガラスが飛び散っていた。事務所そばの防空壕で男性が「広島に投下された新型爆弾ではないか」などと話しているのを聞いた。

大波止へ戻る連絡船で同僚の女性と会い、行動を共にした。まさか長崎が焼け野原と化しているとは思ってもみなかった。しかし、五島町から長崎駅方面を見ると、見渡す限り家が完全に無く、がれき化していた。出勤時に通った道だった。あまりの変わりように夢なのか現実なのか分からなかった。服の袖のように、肩から皮膚がはがれた男の子を見つけた。「一緒に逃げよう」と、声を掛けられなかった。

寺で知り合いに会い、家が焼け落ちたのを知った。別の寺の墓地で彼女と一夜を明かした。上の墓にいた人から借りた布団の中で、敵機に狙撃されるのではないかと一緒に泣いた。

翌朝、母を捜しに焼け落ちた自宅へ向かった。母も妹も無事で再会を喜んだ。八月一日の空襲で危険を感じた母が、諫早に家を間借りしていた。そこへ避難することにし、昼は敵機が飛んでいるので暗くなるのを待ち道ノ尾駅まで歩いた。

新型爆弾が放射能を持つとも知らず、爆心地を通った。あちこちで火が燃えていた。「水を」「助けてくれ」と、悲痛な叫びを聞いた。防火用水に入ろうと、赤ん坊を背負ったまま死んでいる女性を見た。

戦時中、空襲に遭ったが、遺体を見たのは八月九日が初めて。最初は驚いていたが、次第に感覚がまひしていった。道ノ尾駅はやけどをしたり、傷を負った人でいっぱい。ここも地獄だった。

十一日、諫早へ列車で向かった。
<私の願い>
戦争や原爆には絶対反対。若者が自らの命を絶つ状況が続く中で、私は命の大切さを訴えようと、被爆の語り部になった。親より先に死なないでほしい。また、人の心の痛みが分かる人間に育ってもらいたい。

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