空襲が激しくなった戦争末期、学徒動員されていた長崎市飽の浦町の三菱長崎造船所は兵器を造る材料が少なく、工場に行っても仕事がない日が多かった。活水高等女学校、十六歳だった。
当時は大浦出雲町(現在の出雲1丁目付近)の叔父の家で暮らしていた。原爆が投下された八月九日は工場を休んでいたが、朝から警戒警報が鳴り、解除された後、本を読もうと、近くのいとこの家に行った。家の中で本を開こうとした瞬間、強烈な光が走った。はだしで家の外に飛び出した。石段が連なる丘の上にあったいとこの家の前には高い建物はなく、真正面から爆風が襲いかかった。
しばらくして、いとこの家の方を見ると、屋内の家財はすべて倒れ、ガラスが飛び散っていた。怖くなり、はだしのまま、近くの防空壕(ごう)に急いだ。左こめかみにガラス片が刺さっていたのに気付いたのは、壕に入ってから。動転して痛みは感じなかったようだ。
いとこの和子(当時十五、六歳)はあの日、爆心地近くの三菱兵器長崎製作所幸町工場に行っていた。翌日の昼ごろ、和子は全身にガラス片やちりをかぶった姿で帰ってきた。和子の頭の中に刺さっていたガラス片を抜き取り、体を洗ってやった。和子は数年後、全身に紫斑が表れて死んだ。原爆のせいだったのだろう。
十六日、叔父に連れられ、大黒町の母の再婚先に向かった。辺りの家はほとんどつぶれていた。叔父が大橋に住む友人を捜しに行くと言うのでついて行った。茂里町付近に差し掛かると、くすぶった煙が立ち上り、人や馬の焼け焦げた死体が転がっていた。
恐怖のあまり、一歩も先に進むことができなくなり、叔父と別れて家に戻った。それから数日間、食事がのどを通らず、体のだるさを覚えた。下痢も続いた。
二十六歳のころ、体重が三五キロまで落ちた。いとこの和子が若くして死んだのを思い出し、自分も死ぬかと恐怖に震えた。あのころ、町中に放射能が残っていたと知っていたら、爆心地方向には近づかなかっただろう。
<私の願い>
思い出したくない体験だが、多くの友達を亡くし、戦争の怖さを知る一人として、多くの人に同じ体験をしてほしくない。イラクに派遣されている自衛隊の方々が気掛かり。無事に帰ってくることを祈っている。