柿山 澄子
柿山 澄子(79)
柿山 澄子さん(79) 爆心地から3.8キロの長崎市十人町で被爆 =長崎市大浜町

私の被爆ノート

暴風吹き煙に覆われ

2005年9月1日 掲載
柿山 澄子
柿山 澄子(79) 柿山 澄子さん(79) 爆心地から3.8キロの長崎市十人町で被爆 =長崎市大浜町

当時、長崎市十人町に家族四人で住んでいた。あの日は、朝から気分が悪かった私は仕事を休み、母と妹と一緒に家事をしていた。

突然、空襲警報が鳴り、三人とも家の裏にあった防空壕(ごう)に急いで避難した。でも、爆弾が落ちる様子はなく、三十分ほどして避難解除のサイレンが聞こえた。母が真っ先に外に出て、「赤い風船が三つ空にあるよ」と言った。急いで出てみると、本当に風船が浮いていた。「何やろ」。みんなで話しながら、歩いて家に戻った。

家のドアを開け、中に入ろうとすると突然、台風より強い暴風が吹き、同時に赤、青、黄、桃色などの煙にもくもくと覆われた。一瞬にして家の窓ガラスは粉々に割れ、たんすはばたばたと倒れた。畳も吹き飛ばされた。

「危ない」と感じ、慌てて外に出たが、煙で周りがまったく見えない。息も苦しく、煙を吸わないように口に両手を当てた。頭の中が真っ白になり、ぼうぜんと立っていた。考える気力はなかった。

一時間ほどして、再び家に戻ったが、そこでも家族三人、めちゃくちゃになった部屋の真ん中に座り込み、何もできなかった。「あの風船が割れて、爆発したとばいね」。母がぼそっと話した。

夕方になると、仕事に出ていた父が全身真っ黒に汚れた姿で戻ってきて、家族全員で部屋の後片付けをした。煙もこのときにはほぼ消え、真っ赤に燃える県庁がむなしく見えたのを覚えている。幸い家族全員、けがはなかった。

一週間後、用事で市中心部に出向いたが、あちこちに黒く焦げた遺体が積み上げられているのを見て怖かった。以前の街の活気は消え去り、悲しくなった。
<私の願い>
日本はもちろん、ほかの国にも二度と戦争をしてほしくない。何の罪もない人たちが苦しみ、犠牲になっていくのだから。そして、アメリカを中心に核兵器を保有する国々に対し、日本はもっと強く、核兵器廃絶を訴えていかなければならないと思う。

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