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私の被爆ノート

弟背負い火の海逃れ

2005年8月25日 掲載
飯田マリ子(73) 飯田マリ子さん(73) 爆心地から2.3キロの立山町で被爆 =東京都北区=

当時、旧制県立長崎高等女学校の二年生、十三歳だった。

「あの日」は立山町の自宅にいた。突然、B29の「ブォー」という爆音が家の上空を覆うように近づいた。「敵機来襲よ!」。母親の上ずった声がした。その瞬間、金比羅山にあった高射砲兵舎の方角からピカッと白い閃光(せんこう)が走った。「あらっ!」と思った瞬間、ものすごい爆風で吹き飛ばされ、気を失った。

気が付いたとき、耳がツーンとした。私がいた台所は全壊し、材木の下敷きになっていた。家が直爆されたと思った。材木や瓦を必死にかき分けて立ち上がった。母親によると、私はごみの固まりのような姿だったという。真っ青な良い天気だったのに、辺りは突然、真っ暗になっていた。時間がたつにつれ、褐色から茶色に変わり、やがてセピア色になって視界が開けていった。私の家だけでなく、近所も破壊されていたのに驚いた。

あちこちけがをしていたが、その時は痛いとも思わなかった。弟を負ぶって、妹の手を引き、諏訪公園内の防空壕(ごう)へ逃げ込んだ。怖いとか恐ろしいという気持ちは起きず、ただ夢中だった。その防空壕は県の防空本部だったので、中では「新型爆弾らしい」「落下傘が付いていた」などと情報が飛び交っていた。一方で、負傷者が戸板で次々と運び込まれていた。傷だらけで血まみれの人、やけどで背中の皮膚が赤むけの人など、防空壕の中はうめき声に満ちた。

夕方になると防空壕に煙が入ってきて蒸し焼きになる危険が出たため、再び弟を負ぶって、当時、立山町の山手にあった市民グラウンドに向かった。グラウンドに面した山の斜面にいくつか防空壕があり、焼けただれた人たちが浦上方面から火の海を逃れて大勢たどり着いていた。顔も体も火ぶくれになり、男性か女性か分からない。傷口がザクロのように開いていた。焼け焦げて衣服も着けていなかった。「水ばくれんねー」「助けてー」とうめきながら、次々と死んでいく。隣にいた人が、外見上はやけどや傷を負っていないのに「ハーッ」とため息をつきながら死んでいった。急性放射線障害だったのだろう。

市民グラウンドのそばで三日間野宿したが、その間、何を飲んで食べたのか記憶がない。夜になると、県庁や長崎駅方面の火事が間近に迫って見えた。火の海が立山に押し寄せてくるようで恐ろしかった。
(東京支社)

<私の願い>
五月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議は残念な結果に終わったが、日本政府は唯一の被爆国として、世界のNGO(非政府組織)とともに核兵器廃絶の声をさらに高めてほしい。今秋の国連総会に向け、二〇〇〇年の再検討会議で核保有国を含めて合意した「核兵器廃絶の明確な約束」の実現を関係各国に強く働き掛けるべきだ。

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