長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

「米兵上陸」恐れ避難

2005年8月18日 掲載
松尾 信江(64) 松尾 信江さん(64) 入市被爆 =大村市富の原1丁目=

長崎に原爆が投下された当時、現在の長崎市香焼町にあった造船所の社員寮の寮母として住み込みで働いていた母イク=当時(24)=と二人暮らし。父忠作=当時(30)=は出征しミャンマー(旧ビルマ)にいた。

まだ四歳と幼かったから「あの日」の記録はおぼろげ。母から聞いた話では、八月九日の午前中は社員が出払った寮内で母は掃除中。私は一人で同じ背丈ぐらいの日本人形などで遊んでいた。

十一時二分、「ドオーン」という爆音が響き渡り、寮のガラスが割れて飛び散った。心配して駆け寄って来た母に「ガラスが倒れてきたから伏せをしていたよ」と答えた。何事かと二人で寮の裏山に登ると、長崎方面に真っ黒な煙が立ち上っていた。

寮にはけがをして傷口からうじがわいた子どもが大勢運ばれてきた。母は、はしでうじを取るなど懸命に看護に当たったという。数日間寮で過ごした後、十六日に長崎市江の浦町の自宅の様子を見に行った。

自宅は被害を免れていたが、近所では「米兵が上陸するらしい。早く逃げんば」と騒ぎになっていた。東彼の親せき宅に避難するため、母は私を背負って、十六日夜に歩いて出発した。

爆心地を夜中に通過する時、人や馬が焼けた異様なにおいが辺りに充満していた。真っ暗闇の中、米兵の影を恐れてぞろぞろ歩いて避難する人々の足音だけを頼りに、先へ先へと急いだ。「恐らく死体を踏みながら歩いたんじゃないか。恐怖や不安を考える暇もなく、一生懸命ひたすら歩いた」(母)という。

東彼の親せき宅に着いて二、三日後、長崎市岩川町で被爆した母の妹婿が「米兵のうわさはデマだった」と迎えに来て、江の浦町の自宅に戻った。母はそれから下痢や頭痛などに襲われ、その年の十二月には頭髪がどんどん抜け始めた。病床の母を見て「死ぬんじゃないか」と不安になったのを覚えている。

被爆から六十年が過ぎたが、母と原爆について詳しく語り合うことは今もあまりない。終戦後しばらくして帰国した父にも戦時中の話を聞く機会もないまま、父は昨年亡くなった。
(大村)

<私の願い>
長崎を焼け野原に変えたような戦争は、二度と起きてほしくない。今、核兵器が使われれば世界は破滅する。戦争を知らない若い人に戦争の悲惨さを伝えたい。

ページ上部へ