長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

1歳半の子亡くし地獄

2005年8月11日 掲載
平山 梅子(85) 平山 梅子さん(85) 爆心地から1.6キロの御船蔵町で被爆 =五島市下大津町=

私は二十五歳。夫の善助は二十六歳で三菱の立神工場に勤務していた。あの日、空襲警報の解除で、私と一歳半の長男厳、近くに住む妊娠中の姉は、防空壕(ごう)から私の自宅に戻ったところだった。甚兵衛姿によだれかけを着けた厳は、姉のいる居間で元気にはしゃいでいた。私は、玄関で防空ずきんや服を脱いでいた。

突然、青と黄の閃光(せんこう)に目がくらみ、乾いた音と衝撃に襲われた。溶接の火のような熱線が顔や左半身に降り注ぎ、肉をえぐるようだった。周囲が真っ暗になり、徐々に明るさが戻る中、ふと左腕を触ると皮膚がべろりとむけた。厳は、顔がカボチャのように腫れ上がっていた。泣き続けるわが子を抱き、訳も分からず姉と山手の畑に逃げた。太ももの裏を深く切っていたが、痛みは感じなかった。眼下の市街地は火の海となり、噴き上がってくる熱気に立っていられなかった。

翌日、被爆した夫が戻ってきた。姉の夫は即死だったらしいが、姉には言えなかった。私は左半身のやけどがひどく、畑に寝たきり状態。夫は、貝殻や破れた空き缶に水をくんで運んでくれた。ひもじかったが、夫が持ってきた半焼けのジャガイモを食べた時はすべて吐いた。二、三日して私たちはふもとに下り、通行人にたくあんを一本もらった。分け合って食べ、生き返るようだった。

私たちは、時津小に収容された。衰弱した厳は泣かなくなり、八月十五日に息を引き取った。小さな亡きがらは、夫らが近くに埋葬。地獄だと思った。

「古里の五島に帰りたい」。少しでも長崎港に近づこうと長崎市内の救護所に移った。私の顔の一部は大きく膨らみ、足からは大量のうみがしたたり落ちた。救護所内の被爆者が次々に亡くなり焼かれるという悲惨な状況下、姉は救護所内で女の子を出産。やがて姉と子は、姉の夫の実家に引き取られていった。私は死を覚悟していたが、一カ月ほどして帰島できた。夫は時津に戻り、厳の遺体を掘り出して火葬し、ろうそく箱に骨を入れて持ち帰ってくれた。小指ほどの小さな骨だった。

五島では、顔のやけどが恥ずかしくて昼間は外出できない日々が続いた。数年後、乳がんになり摘出した。悲しくてつらい記憶です。
(五島)

<私の願い>
もう戦争は絶対に嫌。一度に大量の人を殺し、生き延びた人も後々まで苦しめる核兵器は絶対に使ってはいけない。どんな国も平和であってほしい。

ページ上部へ