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私の被爆ノート

体中に無数のガラス片

2005年8月4日 掲載
横山ヨシヱ(82) 横山ヨシヱさん(82) 爆心地から2キロの西北郷(現在の西北町)の自宅で被爆 =長崎市西北町=

朝からよく晴れたあの日、私は縁側に座り、女学校に通っていた妹のためにもんぺを縫っていた。真向かいの空が突然ピカッと光り、気付いたら家の中のタンスや家具がすべて倒れていた。

何が起こったのか分からず表に出てみると、裏山のやぶのあちこちで火の粉が舞っていた。すぐにそれは燃え広がり、私の家に燃え移った。母と二人でぼうぜんと眺めるしかなかった。

父は山仕事の人手を集めるため、赤迫まで出掛けていたが無事だった。母は、学徒報国隊として城山国民学校に駆り出されていた妹を捜しに行った。

妹を待っている間、山も家もみんな燃えてしまった。母に抱えられ妹は生きて帰ってきたが、体中に無数のガラス片が刺さり、とても痛々しかった。

診療所に勤めていた近所の人が、妹の手当てをしてくれた。ガラス片を抜き取る間、感覚がまひしていたのか、妹は痛がる様子を見せなかった。妹の話では、被爆後、校舎の三階から飛び降り、はって長崎電気軌道の浦上車庫まで逃げてきたという。

進駐軍がやって来るといううわさが流れ、動けない妹をたらいに入れてみんなで山に隠れた。私も父も下痢と嘔吐(おうと)が続いていた。妹は自らの死を覚悟し「畳の上で死にたい」と訴えたので、二日ほどで山を下りた。原爆投下から十日後、妹は息を引き取った。

終戦して二年後、私は結婚した。翌年、母が腎臓を患い亡くなった。被爆するまではとても元気だったのに、母も原爆に殺された。

私にはとうとう子どもができなかった。それが被爆のせいかは分からないが、一人ぐらいは欲しかった。ずっと「どうせすぐ死ぬんだ」と思って生きてきた。あの日以来、常に病気の不安がつきまとう。

(曇りがかった空を見上げ)今日みたいな天気だったら原爆を落とされず、こんな思いはしなくて済んだのに…。
<私の願い>
原爆はすべてを奪う。今の世界情勢を見ていると、いつか再び核兵器が使われるのではと不安になる。核兵器をなくさない限り、同じ目に遭う人たちが出る。未来を担う子どもたちには、私たちのような惨めな思いをさせてはならない。

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