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私の被爆ノート

はだしのまま傷だらけ

2005年7月28日 掲載
宮本フジヱ(75) 宮本フジヱさん(75) 爆心地から1.1キロの三菱兵器製作所で被爆 =西海市西彼町平原郷=

長浦国民学校高等科を修了後、三菱兵器製作所に勤務し、魚雷の小さな部品をやすりで磨く仕事をしていた。その日の午前十一時ごろ、空襲警報が警戒警報に変わり、少し気が緩んでいた。間もなく、「ピカッ、ドーン」とものすごい光とともにすさまじい大音響。一瞬にして遠くどこかに吹き飛ばされたようだった。気を失っていた。

しばらくして気が付くと、両手で目と耳をしっかり押さえ、蒸し暑い工場のコンクリートの上に伏せていた。体の上には鉄骨やガラスの破片がいっぱいあった。入社して間もない私は、どこが出口か分からなかった。「こっちに来い。こっちが出口だぞ」と教え、連れ出してくれたのは、一緒に働いていた長崎工業学校の学生さんだった。やっとのことでキュウリ畑にはい上がった。よく見ると、私ははだしのまま、ガラスの破片で体中傷だらけ。右足の指の裏はガラスが刺さったり、くぎを踏んだりして血が流れていた。しかし、そのときまで痛みは感じなかった。

住吉の叔父の家に向かって歩いた。家という家から炎が上がり、道端で牛や馬がさまよいわめいていた。牛馬だけでなく、目も耳も焼けた人が「水をください、助けてください」と必死に叫んでいたが、どうすることもできなかった。住吉の半鐘台の近くを通ったとき私を呼ぶ声が聞こえ、振り返ると叔父がいた。「お前、無事で良かったね」と抱き締めてくれた。叔父一家が避難していた防空壕(ごう)で一夜を明かし、翌朝、ひどく痛む足を引きずりながら時津まで歩いた。「亀岳行き」と書いたバスに飛び乗り、大江(現西彼琴海町)の実家に向かった。バスが大江橋を通り掛かると、たくさんの人が道端で見ていた。その中に父がいた。バスから手を振ると、口々に私の名を呼んでいた。

体の弱かった姉は長崎の病院で診察中に被爆。逃げ延びてきたが、十四年後の春に原爆症と診断され、この世を去った。もう一人の姉も道の尾で被爆し、四十二歳の働き盛りであの世の人になった。七十五年間も生き延びた私は何の災いもなく、子ども三人と孫、ひ孫に恵まれ、二人の姉の分も生き続けなければと頑張っている。
(西海)

<私の願い>
兄は飛行兵で、ビルマで戦死した。悲惨な戦争は二度と起こしてはならないし、子どもや孫をあんな大変な目に遭わせたくない。

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