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私の被爆ノート

母と姉の遺骨捜す日々

2005年7月21日 掲載
松山 榮子(82) 松山 榮子さん(82) 爆心地から約3.4キロの羽衣町(現在の出島町)の長崎税関で被爆 =諫早市西里町=

会計担当の職員として長崎税関に勤務していた。自宅は浜口町にあり、八月一日に召集された弟を除く両親と姉の家族四人暮らし。この日はいつものように、築町の反物会社に勤める父と私は電車で南へ、岡町の軍事工場で働く姉は北に向かった。

「今日は空襲警報が鳴らんね」などと同僚と会話を交わした後、持ち場を離れて小さな金庫を運んでいるとき、突然ピカッと光った。慌てて机の下にもぐり込んで辺りを見渡すと、本棚はひっくり返り、ガラスは粉々。捜しに来た同僚たちと一緒に防空壕(ごう)に駆け込んだ。

母のいる自宅が心配になり、上司の了解を得て職場の友人と二人で浦上に向かった。だが、長崎駅付近で憲兵隊に呼び止められ、「腕章を見せろ」と言われた。税関の腕章を見せると「行くなら、この水をかぶっていけ」。言われるがままにたるに入った水を頭からかぶり、再び歩き始めた。

浦上駅付近で偶然、父に出会った。とっさに「母は?」と尋ねると、父は答えた。「大丈夫」。しかし辺り一面は火の海。建物は影も形もなく。普通の姿形をした人は誰もいない。水でぬらした服はいつの間にか、完全に乾いていた。「無事なはずがあるもんね」。心の中でつぶやきながらも、父を困らせたくなく、それ以上は何も聞くことができなかった。

父と手をつないで自宅に向かったが、案の定、自宅は跡形もない。「行くところのなかね、どうすうか…」。再び長崎税関近くの防空壕に戻り、人がひしめき合う暗闇の中で眠れぬ一夜を明かした。

翌朝、空腹を我慢できず、税関内にある海軍事務所でカンパンを分けてもらい、父の実家がある伊木力を目指した。途中、くぎを踏んで歩けなくなり、道ノ尾駅で汽車に乗ったが、降ろされた。父はだいぶ言い争っていたようだが結局あきらめ、必死で山を越えた。着いたのは夜十時ごろだったと思う。

十二日からは、母と姉の遺骨を捜して長崎に通う日々。しかし、自宅跡を掘っても掘っても何も見つからない。父が姉のものとみられる歯は見つけてきたが、どんな状況で死んだか今も分からない。下痢が続き、精神的にも肉体的にも苦しい毎日だった。
(諫早)

<私の願い>
とにかく次世代を担う若い人たちに、世界平和と核兵器廃絶のために頑張ってほしい。願いはそれだけ。私自身は生きているだけでも幸せだと思っている。

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