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私の被爆ノート

ガラス片が降りかかる

2005年7月14日 掲載
原田 侑季(71) 原田 侑季さん(71) 爆心地から3.4キロの長崎市中川町(現在の中川2丁目)で被爆 =長崎市西北町=

台所に立ち、昼食の出汁(だし)を作っていた。ガラス戸に大きな光が走り、反射的に防空ずきんが置いてあった玄関へ。ドドーン。ふいの揺れで板張り床に倒れ込み、ふすまやガラス片も同時に降りかかってきた。

この時、長崎師範付属国民学校の五年生。十一歳。父母と弟三人の家族六人暮らし。旧制中学教員だった父は諫早で研修中。弟二人は裏山でセミ捕り。母は縁側でミシンをかけ、残る弟は部屋で新聞を読んでいた。

大きな爆弾か、どのくらい大きな穴が開いたのか―そんな恐怖心を抱いたまま時間が過ぎた。われに返ると、母は無言で部屋の片付けや、けがで血を流している弟の手当てをしていた。

「爆弾、爆弾」。弟二人もそう叫びながら帰宅してきた。爆発直後、「ぬるい風」を感じたとしきりに話していた。

自宅は高台。町のあちこちから黒煙が上がっているのが見えた。家そのものに大きな被害はなく、母と一緒に夕食の準備にかかったとき、衣服が汚れ、疲れ果てた表情の男性が「少し休ませてください」と訪ねて来た。

母の郷里・佐賀の知人の息子で、長崎高商の一年生。学徒動員で浦上方面の兵器工場にいた。「空腹でナスビを食べたら吐いた。気分が悪い」と話し、「みな悲鳴を上げている」「川には焼けただれた人が飛び込んでいる」と目にした光景を口にした。その一言一言に地獄絵を思った。

「長崎にすぐに帰れ」と上司から伝令を受けた父はその日夜、諫早から戻った。汽車は不通で、自転車だった。帰宅途中、日見峠ではたくさんの負傷者が倒れ、口々に「水をください」と。ひどいやけどを負った男性に水筒を手渡すと「町は燃えている」とだけ答えた―と話していた。

長い一日だった。爆心地付近の惨状こそ体験していないが、家族全員が疲れ果て、いつもの蚊帳を張るのも忘れて夜十時すぎに寝た。翌朝、弟たちの腕を見ながら母が言った。「蚊帳なかったけど、蚊はこんやったね」。この言葉に何か不思議な違和感を覚えた。

その日昼、「長崎に新型爆弾が落ちた」といううわさが町内に広まった。
<私の願い>
戦争、そしてテロのように善良な市民を殺害する行為には断固反対。被爆直後に「水を」と求めた被爆者に、自らの持ち分を差し伸べようとする心の在り方こそが最も大事だ。

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