原爆投下が私の運命を変えた。あの一発が長崎に落とされなかったら、ここにいることはなかったはずだからだ。
東彼川棚町生まれ。地元の尋常小学校を卒業した後、十六歳で自ら志願して大村海軍少年航空隊に入隊した。箕島(現在の長崎空港)近くで訓練中、搭乗していた戦闘機が海に墜落、上官が亡くなった。私は助かったが、特殊潜航隊に編入させられた。
それから毎日、人一人がすっぽり入る程度の小型艇に魚雷を抱いて、敵艦に突入する訓練を受けた。戦況が一段と悪化した一九四五年夏。ついに出撃日が「八月二十一日」に決まった。沖縄辺りで米軍の潜水艦に体当たり攻撃するはずだった。
八月九日は、出撃を前に休養のため、大村から親元に戻っていた。川棚町の海岸にいたら、長崎の方向に、もくもくと白い雲が立ち上るのが見えた。「これはおかしい」とすぐに思った。
十一日、軍から召集の電話があった。「長崎に新型爆弾が落ちた。けが人多数。すぐに救助に向かえ」。そう聞くと、家族にも知らせず部隊に戻り、軍用トラックで長崎に向かった。当時、軍の命令は機密事項で、家族にも口外することは許されなかった。
トラックから降ろされたのは大きな川の近くだった。泳いで遺体を拾い上げたり、がれきの下から遺体を捜し出したりした。水も食べ物もなく、夜は路上で眠った。
長崎に行ったのは生まれて初めてだった。場所も分からず、ただ一緒にいた人に「ここは浦上川だ」と教えてもらった。丸二日、長崎で救援作業をした後、家に戻った。出撃日が迫っていたからだったが、それから三日後に終戦となり、私の出撃命令も解かれた。もし原爆がなければ、私はきっと出撃して死んでいただろう。
原爆の救援作業では浦上川の岸で、たくさんの遺体を重ねて火葬した。あの時のにおいは今も忘れられず、肉を焼いて食べることもできない。
<私の願い>
戦争はとにかくいけない。軍の機密を家族にでも話してはいけないと強く命じられ、長い間、誰にも話していなかった。命あってこそ。争いのない世界を子どもや孫の世代に残したい。