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私の被爆ノート

太陽が赤く見えた

2005年7月2日 掲載
法村 久雄(77) 法村 久雄さん(77) 爆心地から1.8キロの長崎市住吉町で被爆 =新上五島町奈摩郷=

当時、長崎師範学校の本科一年で十八歳。長崎市家野町の寄宿舎で生活していた。学徒動員され、大橋町の三菱兵器工場で魚雷のスクリューをやすりで削る仕事をしていたが、六月に上司から住吉町のトンネル工場工事の測量を命じられた。

あの日は快晴だった。午前七時半ごろに寄宿舎で警戒警報を聞いたが、歩いてトンネルまで行き、八時には現場にいた。

技師や学校の友人と四人で山の測量をしていて、新しく掘っているトンネルの左側の入り口に立ったとき、腕時計を見ると午前十一時ちょうどだった。間もなく飛行機の爆音が聞こえ、空を見上げた一瞬、「ピカッ」とマグネシウムを燃やしたような黄色い光が一面に広がり、それから何も覚えていない。

気が付くと十メートル余り吹き飛ばされ、うつ伏せに倒れていた。顔面や左手などにやけどを負っていた。トンネル工場の中は真っ暗で、入り口に機械が倒れるなどして中に入れる状態ではなかった。必死で友人の名前を叫び続けた。山の中から友人が姿を見せたときは何とも言えない気持ちだった。

それから二人で学校に向かった。途中の畑には黒こげの遺体が散乱。顔の皮がむけた人や、けがをして血みどろの人もたくさんいて、怖かった。空を見上げると太陽が赤く丸く見えた。

学校に着くと校舎からは炎が出ていて、剣道場、柔道場なども焼けていた。教官に「近くの畑に避難しなさい」と言われ、向かったが、畑にはやけどなどを負った約二十人がいた。

畑にいた後輩と夕方に二人で道ノ尾に向かい、勤労奉仕で手伝いに行った家を訪ねた。かんころに麦を混ぜた夕飯を食べさせてもらった。やけどでうまく食べられなかったがとてもおいしかった。その晩、爆音が聞こえて近くの防空壕(ごう)に避難した。翌朝に道ノ尾駅まで行くと汽車が停車していて、友人も何人もいたので乗り込んだ。

諫早の女学校で治療を受けた。十一日午前、茂木に住んでいた兄が迎えに来てくれたときはうれしかった。その後、兄と一緒に茂木まで行ったが、その途中に見た惨状は今も忘れられない。
(上五島)

<私の願い>
地球上から核をなくし、戦争のない平和な二十一世紀であることを願う。できる限り社会のためになることを実践遂行し、悔いのないよう余命を送ろうと固く心に誓っている。

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