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私の被爆ノート

同僚の遺体捜し求め

2005年6月23日 掲載
武田 國義(77) 武田 國義さん(77) 爆心地から1.1キロの長崎三菱兵器製作所大橋工場で被爆 =壱岐市勝本町立石南触=

昭和十八(一九四三)年に入ると、戦争も一段と激しさを増し一憶総動員。私もご多分に漏れず長崎三菱兵器製作所大橋工場で、学徒動員として昼夜交代で働いた。長崎師範学校本科一年、十八歳だった。

「きょうもよい天気で暑くなりそうだ」と、友達と話しながら工場の門をくぐり、持ち場の鍛造工場で魚雷生産に従事していた。仕事が一段落したので、油まみれの手を洗うため工場の外壁にコンクリートで造られている洗い場に出た。その途端ものすごい光が一瞬走ったかと思うと、地の底を揺るがすようなごう音を耳にしたような気がした。その瞬間、気を失っていた。

どのくらい時間がたったのか、何か狭苦しく窮屈な感じがして、われに返った。目を開けると周囲は真っ暗。夜になったのか、何が起きたのか分からない。五十メートルほどの建物がいくつも立ち並び二万五千人もの人がいた工場はたたきのめされ、鉄骨は曲がりくねり、土煙が巻き上がっていた。

薄暗くてよく見えなかったが、闇の中から「苦しい、痛い」「水、水を」「死にそうだ、助けてくれー」と泣き叫ぶ声が、一つの大きな渦となって聞こえてきた。私も避難しようと学校へと向かった。

その途中、目にしたものはむごたらしいものだった。髪は縮れ全身やけどで水膨れになっている人。血だらけで、骨が見えるまで肉がそがれている人。皮膚がボロ布のように垂れ下がり、ブラブラとさせながら歩いている人。今思うと重傷の体で、よくぞ歩けるものだと思う。助かりたいと、安全な場所を求めての行動だったのだろう。力尽き倒れ込む人。うずまる人。水を求めてよろけるようにして川にのめり込んで行く人。生き地獄そのものだった。

やっとの思いで学校にたどり着いたが、私の宿舎は燃え落ちていた。その夜は学校の壕(ごう)で一夜を明かした。

翌日からは師範生の遺体収集作業に入り、三日間捜し求めた。遺体の数は相当なもので、損傷がひどくなかなか見分けがつかない。夏の暑さと悪臭との戦いだった。

戦争の犠牲となった同僚の無念さを思う時、初めて涙があふれ出て止まらなかった。心から冥福を祈りたい。
(壱岐)

<私の願い>
今日の平和があることに感謝し、自分の本分を尽くしてほしい。二度と悲惨なことが起こらないように、一人一人が自覚することが大事。それには子どもたちへ戦争の悲惨さをしっかり伝えなくてはならないと思う。

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