旧制県立長崎工業学校(現在の長崎工高)一年で十二歳だった。長与に両親、きょうだいの計七人で暮らしていた。
八月九日は、学徒動員で朝からこしき岩(長崎市田手原町)に行き、陣地を造るため、同級生や兵隊ら数十人で尾根を削る作業をしていた。
飛行機の音が聞こえ、先生が「伏せろ」と叫んだ。目と耳をふさぎ、急いでその場に伏せた。手の間から上空を見たところ、突然ピカッと閃光(せんこう)が走った。きのこ雲がまるで自分たちに向かって来るように迫ってきた。破れたふすまやみのなどが爆風で飛んできた。
仲間たちと雑木林に避難。昼すぎになり、作業場所に再び集められ、同じ方向の者同士で自宅へ戻るよう指示された。
街の中心部は通れず、西山を越え、三菱兵器長崎製作所大橋工場の裏手に出た。街のあちこちが燃えていた。石垣にもたれ「助けてください」と声を絞り出していた男性は、背中の傷口がザクロのように開いていた。
汽車に乗るため道ノ尾駅まで歩いた。駅の近くに井戸があり、そこで何人か息絶えていた。駅のホームで偶然、五歳上の兄と会った。茂里町の兵器工場で被爆した兄は、傷ついた仲間を大村まで連れて行くという。
汽車は負傷者らでいっぱいだった。デッキにつかまっていると、駅員から「けが人が乗る列車だ」と言われ、降ろされた。結局、長与にあった三菱の社宅に向かうトラックに乗せてもらった。
家にたどり着いたが、父の姿はなかった。三菱の住吉寮に勤めていた父は、大橋工場であった会議に出ていたという。翌日から、母や兄と一緒に大橋工場に通った。
工場内には、いくつもの遺体が並べられていた。黒くこげて全身が膨らみ、死臭が漂っていた。父の遺体は数日たって確認できた。
戦後、全身の調子が悪くなった。医者に診てもらったが、原因はよく分からないという。何とか頑張ってきたが、健康不安は今も消えない。
(西彼中央)
<私の願い>
紛争が絶えない世界を見ると怒りが込み上げる。なぜ話し合いで解決できないのか。戦争はあらゆる物を奪う。絶対に繰り返してはならない。日本政府は米国に追従するだけでなく、「自分の国は自分で守る」という意識を持ち、平和を希求すべきだ。