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私の被爆ノート

敵機見えた直後、閃光

2005年6月9日 掲載
中島 安盛(72) 中島 安盛さん(72) 爆心地から3.2キロの出島町で被爆 =長崎市籠町=

旧制県立長崎中の一年生。現在と同じ籠町に住んでいた。十二歳だった。

あの日は朝早くから警戒警報が鳴って、学校は休みになった。朝八時くらいから、幼なじみの二人と現在の出島町辺りにあった貯木場のいかだの上で、コダイやハゼを釣っていた。配給が乏しく、飯の種にと一心不乱だった。

雲一つない快晴。そして「あの時」。香焼島方向に敵機が見え、突然「バーン」とものすごい爆音と閃光(せんこう)が襲った。私は学校で教えられた通り、目と耳を手で押さえ、口を開けて伏せた。動作の遅かった子は遠くに飛ばされていた。ものすごい爆風に続き、二メートルほどの波が襲ってきた。必死にいかだにしがみついた。辺り一面煙が立ち込め、空襲警報が鳴り響いた。

また空襲があるかもしれないと思い、波が落ち着くのを待って、家に向かって歩いた。電車の架線が垂れていた。今の十八銀行本店の前にあった青果市場も爆風で崩れていた。中央橋近くの銀行もガラスが割れ、紙幣が散乱していたが、拾う人はいなかった。途中、けが人が至る所におり、ガラスが刺さった人も多かった。

やっとのことで家に着いたが、誰もいなかった。雨戸はすべて吹っ飛び、ガラスが割れ、鏡台が家の奥まで飛ばされグチャグチャだった。近所にも誰もいなかったので、大徳寺の下にあった横穴防空壕(ごう)に行くと、両親と当時一歳の妹がいた。父は三菱長崎兵器製作所大橋工場で働いていたが、あの日は自宅近くで防空壕を掘っており無事だった。ほかの兄弟は疎開していた。

夕方になり、煙の方向から、浦上に新型爆弾が落ちたと知った。父は兵器工場にいとこがいたので、火の海を避け金比羅山を越えて浦上に向かった。長崎医科大病院も被爆しており、高木病院(今の十善会病院)までいとこを連れてきた。

長崎の町は、玉音放送が流れた八月十五日もくすぶっていた。町の至る所で遺体を燃やしており、そのにおいが町中に広がっていた。
<私の願い>
国の指導者と教育が道を誤れば、国の根幹を揺るがしかねない。戦争は明らかに無駄だし、犠牲になるのはいつも一般市民。今、平和が危うくなっているが、国の未来を思うことはどういうことなのか、一人一人考えてほしい。

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