田中 重光
田中 重光(64)
田中 重光さん(64) 爆心地から6キロの西彼時津町で被爆 =長崎市矢の平=

私の被爆ノート

爆風爆音にただ、おびえ

2005年6月2日 掲載
田中 重光
田中 重光(64) 田中 重光さん(64) 爆心地から6キロの西彼時津町で被爆 =長崎市矢の平=

西彼杵郡時津村野田郷(現在の時津町)に家族六人で住んでいた。あの日は地域一斉の掃除の日で、祖母と母、十四歳の兄が家の大掃除をしていた。掃除の手伝いができなかった四歳の私は、一歳の弟と祖父と一緒に庭の柿の木の下にござを敷いて遊んでいた。

木に登っていたら、かすかだったが飛行機の音がした。「じいちゃん、飛行機の音が聞こえるよ」。そう言った瞬間、辺り一面が真っ白に「ピカッ」と光った。

家の近くに爆弾が落ちたと思った私たち家族は裏山に必死で駆け登った。逃げる途中、たくさんの雷の音を一つに集めたぐらい大きな爆音が響き、台風より強い爆風が吹いた。想像をはるかに超えた現象に、怖かった。避難先の裏山でじっと固まっていた。

一時間後、家に戻ると窓ガラスがすべて割れ、ふすまや障子も吹き飛ばされていた。それまで空襲被害も見てきたが、これほどの威力のものは初めてだった。幸い家族全員、けがはなかった。夜には窓もない真っ暗な家から、真っ赤に染まった長崎の空だけがむなしく見えたのを覚えている。

次の日から母は国防婦人会の要請で、近所の時津村国民学校に次々と運ばれてくるけが人の手当てに当たった。母は「顔など全身が焼けただれて男女の区別がつかない負傷者が何人も運び込まれた」と話していた。

数日後、母と弟が長崎市内に用事で出掛け、焼け野原になった長崎の街の様子を聞いた。木造の建物は跡形もなく消え、工場の屋根も吹き飛ばされていて、鉄骨がグニャッと曲がっていたという。

私も一カ月後に長崎市内に出向いたが、以前の活気のあった街の風景はなく悲しくなった。
<私の願い>
核兵器と人間は共存できない。核兵器があるということは、戦争が再び起こる可能性があるということ。再び被爆者を出さないためにも、人間の幸せを奪い去る核兵器や戦争をなくすよう、若い人が中心となって、もっと世界に訴えてほしい。

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