当時、旧制中学の一年生だった。あの日は警戒警報が発令されていたため、自宅裏の同級生宅の縁側で一人でラジオを聞きながら、警報が解除されるのを待っていた。
「ウーン」。うなるような低い音が聞こえてきた。「爆撃機か?」。懸命に空を凝視し、音のする方向を目で追った。キラキラした白い落下傘が遠くに見えた。見つけた、と思った瞬間、ストロボをたいたような閃光(せんこう)が走り、目の前が真っ白になった。両手で目と耳を押さえ、必死にうつぶせになった。
何分ぐらいたっただろう。恐る恐る立ち上がり、自分がいる場所から現在の東小島町辺りを見下ろしたが、土煙で何も見えなかった。「正、正」。母親が防空ずきんを手に、大声を上げながら駆け寄ってきた。爆風で倒れた自宅玄関のガラス戸で足の裏を切り、半狂乱の状態だった。
昼すぎ。爆心地の方向から逃げて来たのだろう。髪が縮れ、皮膚が焼けただれたり、血だらけの人たちがぞろぞろと歩いて来た。その光景が今でも忘れられない。
その晩は、風頭山の中腹にあった大きな防空壕(ごう)で、町内の人たちと眠れぬ一夜を過ごした。夜中、蒸し暑さのあまり外に出ると、浦上の方向は一面、火の海だった。何が起きたのか分からず、ただ恐怖だけがあった。その日から一週間はいつでも逃げ出せるよう、眠るときも家の縁側で靴を履いたまま横になったのを覚えている。
終戦直後だったか、時期ははっきりしないが、陸軍に徴兵されていた兄が家族の安否を確かめるため大阪から戻ってきた。その時、落とされたのが新型爆弾だと初めて聞かされた。兄を長崎駅へ送る途中、焼け野原となった街ではあちこちで廃材が積まれ、遺体が焼かれていた。
体への異変はそれから二、三日たって現れた。食べ物を全く受け付けず、血便が約二週間も続いた。終戦後、再開された学校に行ったが、約五十人いた同級生は半分以下に減っていた。生き残った友人の一人は六、七年もたってから白血病で亡くなった。被爆の影響と思う。私もいつ彼のようになるか、気が気でなかった。不安は今も消えない。
(佐世保)
<私の願い>
私は被爆はしたものの、幸いに命は助かった。二、三年早く生まれたため、特攻隊で亡くなった人も大勢いる。本当に人の生死は紙一重と思う。若い人たちに言いたい。これからの若い世代が知恵を絞って世界を平和へと導いてほしい。そして自分の命を大切にしてほしい。