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私の被爆ノート

偶然見た“異様な物体”

2005年5月19日 掲載
宮田 隆(65) 宮田 隆さん(65) 爆心地から2.4キロの長崎市立山で被爆 =南高小浜町北本町=

幼少のころ長崎市立山の実家から偶然見た”異様な物体”を、今も忘れることができない。

当時五歳。その日は朝から母と街まで買い物に行った。帰り道、母が買い忘れを思い出し街へ戻ると言ったが、そのころは空襲警報が相次ぎ、いつも不安だった私は「早く帰ろう」と泣きじゃくった。

結局、そのまま帰宅してビー玉遊びをしていた時、その物体は現れた。「ゴー」という大きな音が上空から聞こえ、目をやるとB29爆撃機が銀翼を光らせて飛んでいる。恐怖心いっぱいで凝視していると、B29が落下傘を付けた物体を落とす瞬間を見た。

「あれは何ね」と母に聞いても「分からん」との返事。三菱兵器製作所から徹夜明けで戻り、隣家に寝ていた叔父のもとに母が確認に行く間、浦上方面へ平行移動する物体をずっと見ていた。その姿が山に隠れて見えなくなった瞬間、「ピカッ」と辺りが真っ白になり、同時に「ドーン」という音と爆風が襲った。

家の中は倒れた障子や割れたガラスが散乱。恐怖のあまりとっさに母親にしがみつき、「帰りたい」と叫んだのを鮮明に覚えている。今思えば母胎に戻りたい本能から出た言葉だったと思う。三菱造船所に勤める父が帰ってくるまで、二人で家の防空壕(ごう)に隠れた。

家族三人とも大きなけがはなかった。父は私たちの無事を確認後、浦上に移住していた伯父夫婦の安否を確かめに行ったが、二人とも黒焦げで即死だったという。

夕方になり、焼けただれた白衣の若い看護婦が金比羅山を越えて自宅前まで逃げてきた。「水をください」。母が渡したつるべに口を付けた途端、バタッと倒れて息絶えた。夜は空がいつまでも真っ赤に見え、おぞましい一日だった。

私はあの物体を原爆だと思っていたが、今思えば落下傘付き爆圧等計測器「ラジオゾンデ」だったのかもしれない。

被爆から一週間後、両親の古里・南高北有馬町に家族で疎開した。家財道具をリヤカーに満載し、歩いて日見峠を越えた。橘湾を望む小浜町富津に着いた時には疲れと炎天下で鼻血を出し、泣きじゃくりながら歩き続けた。
(小浜)

<私の願い>
被爆は私の心に深く重く、海外勤務時も体験談を語ってきた。定年後も原爆や平和追求をライフワークにしている。被爆地ナガサキが世界に平和を発信する責任は極めて重い。若者らにその事実を伝え、彼らが日常の平和を大事にすることを願う。

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