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私の被爆ノート

わが家 数本の柱だけに

2005年5月13日 掲載
山下 泰昭(66) 山下 泰昭さん(66) 爆心地から2.5キロ、平戸小屋町の自宅で被爆 =メキシコ在住=

兄三人、姉三人の七人きょうだいの末っ子で当時六歳。三人の兄は出征し、一緒にいたのは父母と姉三人だった。

毎日のように近くの山で友達とトンボ捕りやセミ捕りをしていたが、この日は、すぐ上の姉と家にいた。母が昼食の支度で七輪の火をおこすのをそばで見ていた。

ラジオが朝から空襲への注意を呼び掛けていたらしい。母が近所の男性と「何もありませんでしたね」と話すのを聞きながら、台所に入った時だった。ものすごい爆発音と爆風に襲われた。

私を守ってくれたのだろう、母が上から覆いかぶさっていた。下敷きになったまま、何かがはじけて飛び散る音や破裂音、爆発音、あらゆる音を台所の床で聞いた。十分後か、十五分後か。静かになって、こわごわ辺りを見ると、わが家は数本の柱だけになっていた。

姉が言う。「母ちゃん、頭に油が掛かった」。米軍が有害な液体をばらまいている、といううわさを聞いていた。だが、べとっとした液体は血だった。額にガラスの破片が突き刺さっていた。動転して痛みは感じなかったようだ。

三人で近くの防空壕(ごう)へ避難した。片脚が義足だった姉も恐怖で必死だったのか、一目散に防空壕へ駆け込んだ。姉があんなに速く走るのを見たのは、後にも先にもこの一回だけだ。

使いに出ていた上の姉二人は、それぞれ家の中に入れてもらって難を逃れたと後で知った。山へ行っていて大やけどをした友人の一人が何日か後に死んだ。遺体処理の手伝いに従事し「歯が落ちるような気がする」としきりに言っていた父は、後遺症か何かで二年後に亡くなった。

草木も生えない―と言われた長崎で翌年の春、野原で小さな白い花を見つけた時の感動は忘れられない。幼いながらに感じた自然の力の素晴らしさが、今も、陶芸や絵に取り組む自分の原点になっているように思う。
<私の願い>
日本を離れて四十年近くたった今も、八月が来るたびに「あの日」を思い出す。被爆者はどこにいても被爆者。自分は幸い、今のところ健康の不安を感じないが、二年に一度の海外健診で会う人の中には、日本と同等の援助を求める声も強い。

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