廣瀬 隆
廣瀬 隆(74)
廣瀬 隆さん(74) 爆心地から1.2キロの三菱兵器製作所茂里町工場で被爆 =長崎市片淵5丁目=

私の被爆ノート

がれきから「助けて」

2005年4月28日 掲載
廣瀬 隆
廣瀬 隆(74) 廣瀬 隆さん(74) 爆心地から1.2キロの三菱兵器製作所茂里町工場で被爆 =長崎市片淵5丁目=

長崎市の勝山小高等科を卒業し、三菱兵器製作所茂里町工場に勤め始めたばかり。十四歳だった。午前六時すぎに起き西坂町の自宅から歩いて通勤、七時ごろから働いていた。

やすりで部品を削ったり磨いたりして、戦艦用魚雷の小さな部品を作る作業に従事。工場の二階で部品の検査に行こうとしていたら、突然、窓の外で稲光のようにピカッと光った。日ごろの訓練通り目と耳を両手でふさぎ、その場にうつぶせに倒れ込んだ。ぐらぐらとした感覚があり、一、二分そのままの姿勢でいた。

何が起きたか分からず、立ち上がり目を開くと、自分がいた建物は床から崩れ落ち、奇跡的にがれきの上にいた。爆風で天井はなくなり、青空が広がっていた。いい天気だったのを覚えている。

歩きだすと、上空を敵機が何機も舞っており、怖くてしようがなかった。がれきの下敷きになった同年代の若者や、服がはがれた裸の女性たちの「助けてくれ」「助けてください」という叫び声が聞こえた。命からがら逃げるので精いっぱいで、どうすることもできなかった。今でも悔いが残る。

やっとの思いで防空壕(ごう)にたどり着いた。暗闇の中に数人がいたが、沈黙状態が長く続いた。

夕方になり、自宅に向かって歩くと、路上には荷物を運ぶ馬があちこちに倒れ死んでいた。馬が積んでいた軍事用の氷の塊を拾って口の中に含み、家の近くまでたどり着いた。

そこに心配で捜しに来ていた父親がいた。「父ちゃん」と叫ぶと、父親は驚き「おまえは隆か」と言った。その時の私は顔の左半分がやけどで真っ黒。服はぼろぼろで頭は血でべっとりになっていたという。自宅近くは火事で帰れず、公園で婦人会が炊き出してくれたおにぎり二個を食べた。

しばらくは家に住めず、一時しのぎの小屋にいると左目はただれ、うじがわいてきた。病院に通い、約一カ月半治療を受けた。

十七歳の姉は三菱造船所大橋工場に勤めていた。父は毎日捜しに行ったが、見つからなかった。さぞ無念だったろうと思う。
<私の願い>
今年は原爆が投下されて六十年。罪のない人が巻き込まれるあんな悲惨なことは二度とあってはならない。戦争はすべての人を不幸にする。世界各国が仲良くし、人命の尊さを大事にしてほしい。平和で暮らせる世の中を望む。

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