東彼杵郡宮村(現在の佐世保市瀬道町)に家族と暮らしていた。十五歳だった。九日は姉と二人で自宅近くの田んぼで草取りをしていた。すると空襲警報が鳴り、戦闘機の爆音が近づいてきた。
怖くなってすぐあぜ道に上がり、戦闘機の音が遠ざかるまでじっと伏せていた。しばらくして近くの柿の木の下に移動すると、恐ろしく大きな音がし、山の上の雲が真っ赤に染まるのが見えた。姉と「長崎の方に落ちたのかな」と話し、心配していた。
家に帰ると、近所の人が「すごい爆弾が落ちた」と言っていた。学校から自宅待機を命じられていたが、長崎から負傷者が南風崎駅に運ばれ、宮村国民学校に収容されていると聞いた。十四日に「救護活動に来てください」と要請があり、姉と二人で行った。
学校に着くと、子どもながらに、その悲惨な様子に言葉を失った。負傷者は部屋いっぱいに寝かされていた。ほとんどは体が真っ黒に焦げ、目の白い部分だけが浮き上がっている状態だった。タオルやガーゼを手渡され、赤くただれた皮膚にわいたうじ虫を一生懸命ふき取った。皮膚はじゅくじゅくとし、うじ虫は取っても取っても出てきた。だが放射線の怖さも知らず、治ってほしい一心で顔や腕、足を一日中ふいてあげた。うめき声に交じって「熱い」「水」という声も聞こえ、胸が締め付けられた。
うじ虫をふき取ったガーゼやタオルは近くの川で洗ったが、ふと横を見ると、負傷者が数人、「水、水」と言いながら川に入っていた。全身の力を振り絞っていたのだろう、本当に痛ましい姿だった。
十五日も看護に行ったが、ほかの人から「今朝までに亡くなった人が大勢いる」と聞かされ、残念な気持ちでいっぱいになった。その日も同じようにうじ虫をふき取り、一生懸命尽くした。
看護は十四、十五の両日で終わり、また自宅待機となった。宮に運ばれてきた負傷者はかなり多かったと思うが、そのうちどのくらいが助かったのかは分からない。ほとんどの人が亡くなられ、山で焼かれたと聞いた。
(佐世保)
<私の願い>
戦争は絶対に繰り返してはいけない。しかし、テロや紛争は各地で続いている。こんな残酷なことがなぜまだあるのか分からない。若い人には友達と仲良くするなど、身近なところから平和を築いてほしい。