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私の被爆ノート

雷の何十倍もの光が

2005年4月14日 掲載
秋葉 敬(65) 秋葉 敬さん(65) 爆心地から4.5キロの愛宕町で被爆 =北松江迎町猪調免=

五歳だった私は、長崎市役所に務めていた父と母、きょうだい七人と愛宕町(当時)で暮らしていた。男の子の遊びといえば川や海で泳いだり、竹馬、ビー玉、けん玉などだったが、遊んでいても、大人が「空襲警報」と叫ぶ声で、条件反射のように防空壕(ごう)に走って逃げ込んでいたのを覚えている。

八月九日は朝から天気が良かった。近所の子ども五、六人とパンツ一枚になって、家の前の道で竹馬遊びをしていると、仲間の一人が「あれは何ね」と空を指さした。見上げると、落下傘のようなふわふわした物が漂っているのが目に入った。途端、ピカーッと雷の何十倍もあるようなものすごい光がした。

「家の中に入れー」。はだしで飛び出してきた母の怒鳴り声で、一目散に駆け込んだ。母は押し入れから布団を引っ張り出し、目と耳を両手で押さえてうずくまる私たちに掛けた。

布団の中で震えていると、「ドドドーッ、バリバリバリ」と地鳴りがして家が揺れた。隣にいた二つ上の子どもが念仏を唱えていた。音と揺れが収まり布団から出てみると、ガラス戸や窓などは吹き飛び、屋根と柱、壁だけになっていた。誰にもけがはなかった。

どれくらい時間がたったか分からない。ガラスの後片付けをしていると、市街地の方からぞろぞろと人が上ってきた。服はボロボロ、顔は真っ黒。中には顔や手の皮が垂れ下がった人や、よろよろ歩く人、リヤカーに乗せられ動かない人が列をなしていた。どうしてそんな姿になったかも、どこへ向かっていたのかも分からなかった。

あまりにも異様な光景で今も忘れることができないが、後のことははっきり思い出せない。家族は皆無事だったが、父は五年後にがんでこの世を去った。母は長い入院生活を送り八十八歳で、二歳上の兄は五十八歳で血液のがんで亡くなった。

最近になって分かったことだが、あの日空を漂っていたふわふわした物は、原爆の威力を知るための機器だったようだ。空爆があるたび、防空壕に逃げ込んで震えていたせいか、今でも飛行機の音を聞くと震える思いがする。
(江迎)

<私の願い>
育ち盛りの子どもにとって、何よりも食料不足がつらかった。「戦争は人間の仕業」。将来を担う子どもたちには、相手とよく話し合い、互いを思いやる心と広い視野を持った人になってほしい。そうすれば争いやいじめなどはなくなると思う。

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