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私の被爆ノート

閃光境に生き地獄

2005年4月7日 掲載
平川 福重(74) 平川 福重さん(74) 爆心地から1.5キロの長崎師範学校(文教町)で被爆 =南高布津町甲=

長崎師範学校予科一年生、十四歳だった。校庭で軍事教練のため整列していると爆音が聞こえた。「敵機か味方機か」と教官から尋ねられた級長が「味方であります」と答えた瞬間、これまで見たこともないような稲妻が光り、少し遅れてごう音が襲った。

気が付くと、校庭にうつぶせになり目と耳をふさいでいた。ふと顔を上げると、燃えた服を消すために級友がごろごろ転がっている。痛みをこらえるためなのか「あいた、あいた」と言いながらその場で駆け足をする姿も。近くの溝に駆け込み、友と体を点検し合った。あごひもを付けていたはずの戦闘帽が吹き飛び、丸刈りの髪は焼けてざらざらしている。服も焼け、しっかりしめていたはずのゲートルもない。左ほおの皮膚は二十センチほど垂れ下がり、背中、尻、左手の甲も黒く焦げていた。

頭から流血したままの校長が、裏山の防空壕(ごう)に避難するよう命じた。校舎がつぶれ、普段なら二、三分の道のりだが、なかなかたどり着くことができない。その校舎では、兵器工場に動員され、夜勤明けに休んでいた先輩たちが下敷きとなり、大勢亡くなっていた。

壕の内外には、ガラスの破片でやられ、全身血だらけの人でいっぱい。道ノ尾の病院に移動したが、学校の運動場ほどもある庭が負傷者であふれていた。死んだ子どもにほおずりしながら泣いている母親もいた。

夕方、救援列車で大村に向かった。「痛い痛い、誰か助けて」「お母さん、お母さん」と泣く声やうめき声が、すし詰めの車内を重く埋め尽くした。あの閃光(せんこう)とごう音を境に、目の当たりにするすべてが生き地獄になった。

終戦の数日後、連絡を受け駆け付けた母がスイカ二つを持ってきて、みんなで分け合った。やけどで開かない口を手でこじ開け、スプーンで食べたその味を忘れることができない。南高布津町の自宅に戻ると、弟や妹はその姿が怖かったのか、ふすま越しに遠くからのぞいていた。祖母が「こげんやけどして痛かっただろう」と泣きながら体をさすってくれ、生きている実感が込み上げてきた。
(口加)

<私の願い>
世界の平和と人類の幸せのために、核兵器廃絶を訴え続けたい。教員を退職した今も、小中学生にあの日の悲惨な出来事を語っている。皆、真剣に聞いて受け止め、理解しようとしてくれている。まず、人の命を大切にすることから始めてほしい。

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