松下 春雄
松下 春雄(77)
松下 春雄さん(77) 長崎市松山町で入市被爆 =対馬市厳原町久田道=

私の被爆ノート

ひん死の子どもに水

2005年3月31日 掲載
松下 春雄
松下 春雄(77) 松下 春雄さん(77) 長崎市松山町で入市被爆 =対馬市厳原町久田道=

目がくらむ閃光(せんこう)。体を揺さぶるごう音。徴用で送り込まれた西彼香焼村(当時)、川南造船所第二ドック。突然の強い光に、溶接工だった私は「電気の抵抗器が故障して火花が散った」と思った。十八歳だった。

明かり取りの窓ガラスが割れ、工員たちに降り注いだ。建造中だった一万トン級の運搬船の中に避難した。すぐに空襲警報が鳴り響いた。われ先にと、三百メートルほど離れた防空壕(ごう)に向かった。階段にうずくまった米国人の捕虜の横をすり抜けたのを覚えている。

夕方まで防空壕にいた。「暁部隊」と呼ばれていた寮に戻ると「長崎市内に新型爆弾が落ちた」と説明された。翌日から五日間、けが人の搬送や遺体の処理に当たった。

香焼から川工丸という渡海船で大波止に着くと、にぎり飯を二つ手渡された。憲兵から「助かりそうな人は寺に運べ。話せる人がいれば、名前と住所を聞き、道路に石で書き込め」と命令された。浦上方面だったと思うが、ほとんどの建物が倒壊して散らばり、自分がどこを歩いているのか分からなかった。

路面電車が横倒しになり、乗客は真っ黒に焦げていた。川の中には水ぶくれの遺体がいくつも流れていた。遺体を焼く煙がいくつも立ち上っていた。救助できたのは四、五人だけだった。

「兄ちゃん、水、水」。近寄ってきた五歳ほどの子は目が見えないようだった。「水を飲ませると死ぬ」と聞いていたが、仲間と話し合って「この子はもう助からない」と、破裂した水道管から水が噴き出している場所に連れて行った。その子はひざまずき、両手で水を受け、むさぼるように飲んだ。その姿が今も脳裏に焼き付いている。

長崎をたったのは十五日だったか。毛布を一枚もらい、博多港から鮮魚運搬船で厳原町浅藻の自宅に着いた。無事帰還を祈る陰膳(かげぜん)が置かれていた。作ったのは祖母。「長崎は全滅。春雄は死んだ」。そう聞かされながらも、祖母は私の生還を信じてくれていた。
(対馬)

<私の願い>
原爆を体験した私たちは、戦争の恐ろしさを知っている。平和で、誰もが笑顔で暮らせる世界を望む。子や孫やその後の世代まで、平和を引き継がなければならない。

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