長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

塹壕造りの中「ドーン」

2005年3月24日 掲載
飯田 元信(72) 飯田 元信さん(72) 爆心地から4キロの稲田町で被爆 =島原市杉山町=

当時、長崎工業学校(長崎工業高の前身)一年の十三歳。上級生は学徒動員で各地の軍需工場で働き、私たち一年生六学級は三学級ずつ日々交代で勉強と塹壕(ざんごう)造りをしていた。

あの日、約百人の生徒は稲田町から少し離れた山でスコップを持ち塹壕を掘った。壕の近くには兵隊数人が立ち監視していた。作業の最中にいきなりドーンというものすごいごう音が鳴り響いた。木が茂る山中だったので何が起きたのかその時は分からなかった。幸いけがはなく、みんなで作業を続けた。

昼すぎに紙くずの燃えかすのような物が風に運ばれてたくさん落ちてきた。夕方、作業を終えて帰る途中、山のふもとを通りかかると、家々の窓ガラスが粉々に割れていた。とてつもない兵器が使われ、市街地に大きな被害が出ていることをはっきり知った。

その日は自宅に直接帰った。自宅の窓ガラスも粉々に割れていた。工場勤務の父は爆心地から職場が離れていたため無事だった。母と幼い妹、弟の三人は、自宅から近くの中学校の防空壕に向かう途中の墓地内で原爆の衝撃にさらされたが、幸いけがはなかった。

父は翌十日以降、人捜しのため焼け野原になった市街地に入った。爆心地近くの上野町にあった長崎工業学校は全焼しており、私は市街地に行かなかった。後で知ったが、校舎にいた多くの生徒は原爆で一瞬にして尊い命を奪われた。

島原市出身の両親は、壊滅的な被害の長崎の生活に見切りを付け帰郷を決意した。終戦の十五日、玉音放送を聞き、その日の夜に自宅を出て日見トンネルを越え島原に歩いて向かった。父は乳母車に妹を乗せ、母は弟を背負い、私はひたすら歩いた。島原に着いたのは十七日だった。

終戦後間もなく、長崎工業学校の関係者から校舎移転について連絡があり、移転後も通学するか意思確認があった。既に家族は島原で暮らすことを決めており私は島原の学校に転校した。

母は現在、九十五歳。終戦前後の日々について詳しく話したことはないが、食糧難の混乱の時代に相当苦労を重ねたようだ。
(島原)

<私の願い>
多くの同級生の命を一瞬に奪った原爆が憎い。日中戦争で負傷、長崎に戻り被爆した父。子どもたちを必死で守り育てた母。一般市民を苦しめる戦争は二度とあってはならない。

ページ上部へ