長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

負傷者あふれ生き地獄

2005年3月17日 掲載
山下 護(75) 山下 護さん(75) 爆心地から1.5キロの家野町で被爆 =平戸市鏡川町=

当時、長崎師範学校二年の十六歳。学徒動員先の三菱兵器大橋工場から学校に戻り、寄宿舎で自分の国民服を洗っている時、閃光(せんこう)と同時にごう音が鳴り響いた。瞬間的に「焼夷(しょうい)弾だ」と感じ、訓練で教わった通り、耳、目、鼻を両手で押さえて洗濯台の下に伏せた。

目の前は真っ暗だった。黄色っぽく視界が開けると、建物がつぶれるような音が聞こえた。右足を負傷したがどうにか立ち上がり、同級生らと歩き回ると、六角形の寮が真上からの爆風で押しつぶされ倒壊。がれきの下からうめき声が聞こえたが、どうすることもできなかった。

しばらくして低空飛行の機影が見えた。恐ろしかった。三原方面の山に逃げる途中、市街地のあちこちで火の手が上がっていた。山頂で再会した教官は、妻子が住む山里の自宅周辺が燃え盛っていることを知り号泣。「師範の学生を見捨てることはできない…」とその場に立ち尽くした。

元気な生徒は山を下り、学校に戻った。別の教官が軍刀を握り「新型爆弾のようだ」と説明し生徒を捜すよう命じた。防火用水に顔を突っ込んだまま死んだ学生もいた。重傷者を担架に乗せて道の尾駅に運んだ。牛や馬が立ったままの姿で死んでおり異様だった。

翌朝、道の尾駅は負傷者であふれ生き地獄。私の仕事は重傷の生徒を諫早駅まで運ぶことだった。しかし、救護所に医薬品はほとんどなかった。大勢の負傷者が運び込まれた長与の学校では毎日、死者が続出。校庭周辺の野花を手向け、祈るしかなかった。

生徒の救護作業は十二日昼ごろまで続けた。戦後、原爆で外傷を免れ一見元気だった同級生らが次々と亡くなった。

二十歳で教員になった。平戸市内の小中学校などに勤務したが、自らの被爆体験を語ったのは四十代になってから。それまでどうしても話す気になれなかった。

初めて語ったのは市立中部中の教頭時代。被爆の実相を伝えるうちに、生徒たちが涙を流して聞き入った。「話してよかった」と心から思った。
(平戸)

<私の願い>
被爆体験は後世に伝えていかなくてはならない。原爆の投下は人の道に反する行為。二度と使ってはならない。世界の強国は核兵器保有により自国の安全を守るというが、その考えは過ちだ。

ページ上部へ