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私の被爆ノート

光と強い風に襲われ

2005年3月12日 掲載
名切元弘美(72) 名切元弘美さん(72) 爆心地から4キロの長崎市東山手町で被爆 =ブラジル・サンパウロ市=

奇跡は八月八日に起きた。私は当時、長崎市東山手町にあった旧制東陵中学校に通っていた。学校帰りに、検査のため長崎に寄港していた故郷の北松小値賀町漁連の船に出合った。漁連の人が「夜に帰るから、母ちゃんに荷物を持って来いと言え」と言ったので、同市山里町にあった家に帰り、母に伝えると、母は三人の妹と二人の弟を連れて、その夜、小値賀に帰った。おかげで母たちは原爆に遭わずに済んだ。

八月九日は朝から警報が鳴っていたが、先生が迎えにきたので学校に行き、防空壕(ごう)を掘った。午前十一時すぎ、壕の外に土を運び出すと、B29爆撃機が稲佐山の方から飛んできた。誰かの叫び声がしたかと思ったら、ピカッとした光と強い風に襲われ、かぶっていた帽子がどこかに飛んでいった。

すぐに友人と浦上へ行った。電車の軌道敷きで馬が死んでいた。火災で先に進めなかったので、学校に戻った後、再び金比羅山、穴弘法山を通って浦上へと向かった。浦上天主堂に差しかかると、山里国民学校から火の手が上がっていた。

穴弘法山で、けがをした女子挺身(ていしん)隊員と思われる女学生から「ここにいると母に伝えて」と頼まれた。女学生は「内野」という姓で、家は大浦で歯医者をしていると聞き、尋ねて行ってご両親に伝えた。後で聞いた話では、一週間後、女学生は亡くなったという。

九日の夜は同級生の庄司君の家に泊めてもらった。十日朝、学校に行くと、みんな浦上に行っていた。家族が小値賀に帰った後に世話になっていた岡町の天理教教会も焼けていた。故郷に帰るしかないと思い、焼け残った荷物をまとめ、長与駅まで歩き、汽車で佐世保へ行った。船着き場に行くと船は出た後で、もういなかったが、「相浦に漁船がいる。行ってみれば」と教えられ、やっとのことで船に乗ることができた。

船は十一日夜、相浦を出港。しかし、翌日の朝早くエンジンが止まった。「海に機雷が浮いてるぞ」と船長の叫び声を聞いたおばあさんが突然大声で「南無妙法蓮華経」と唱え始めたのを覚えている。船はゆっくりと機雷をかわしながら進み、小値賀の隣の宇久島に着いたときは、無事に帰れたと心からうれしかった。
<私の願い>
あの時の恐怖は想像を絶するもの。戦争は人の心掛け次第で未然に防ぐことができる。ブラジルで長崎原爆を収めたフィルムを見せている。子や孫が戦争、原爆の怖さをみんなに伝えてほしい。

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