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私の被爆ノート

被爆者を病院まで運ぶ

2005年3月3日 掲載
古賀 孝雄(75) 古賀 孝雄さん(75) 諫早市内で救護活動に従事 =佐世保市奥山町=

故郷の東彼杵郡宮村奥山郷(現佐世保市奥山町)を離れ、県立諫早農学校(現県立諫早農業高校)の寄宿舎に入り学徒動員で野菜作りなどをしていた。十五歳だった。

あの日は、空襲で町全体が焼かれないように家屋の解体作業をしていた。空襲警報が鳴り、長崎方面の空を見上げると落下傘が三つほど落ちてきた。途中で「ピカーッ」と光り、きのこ雲が広がった。快晴だった空は暗くなり、雨が降ると思って寄宿舎に逃げ帰った。「新型爆弾が落ちた」とだけ聞いた。

二、三日後、長崎から列車で負傷者が次々と農学校に運ばれ、講堂はいっぱいになった。級友とともに救護活動に従事し、諫早駅近くにあった諫早海軍病院まで片道約二キロ、被爆者三、四人を担架に乗せて運んだ。

被爆者は上半身裸。背中は黒く焼け焦げ、背中の割れ目にはうじ虫がわいていた。「痛い、痛い」「水をくれ」と叫び、うめいていた。まだ学生だったので特に話題もなく、言葉を交わした記憶はない。

うじ虫がわいた体からは、言葉では表せない臭いが漂ってきた。食糧難で空腹だったが、その日は悪臭を思い出して食事がのどを通らなかった。あの臭いは今でも忘れられない。

一カ月後、長崎大学病院の近くに農作業の奉仕に行った。浦上駅で列車を降りると長崎は焼け野原。鉄骨は爆風で曲がり、道路脇には馬の骨が転がっていた。農作業現場に向かう途中、防空壕(ごう)の前を通ると頭蓋(ずがい)骨が転がっていた。原爆のすさまじい威力を物語っていた。

救護体験や悲惨な光景を目の当たりにして原爆の恐ろしさを痛感した。戦中は空襲や機銃掃射を受けるなど恐ろしい体験もした。戦闘機から燃料の補助タンクが落ちてきた時は、爆弾と思って水を張った田んぼに飛び込んで泥まみれになったこともあった。

核兵器や戦争の恐ろしさ、悲惨さは今でも身に染みている。
(佐世保)

<私の願い>
戦争は絶対反対だ。戦争をすれば罪もない市民が銃弾や爆弾の犠牲になる。戦闘が続くイラク国民も本当に戦争が嫌だと思う。二度と惨めな思いをしないでいいように、平和で暮らせる世の中であってほしい。

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