父親が貿易商で、当時は上海に住んでいた。だが、母親の体調が悪化したり、米軍による爆撃が激しくなってきたことから、十一歳で父親の出身地である長崎に戻り、上西山町で暮らし始めた。
勝山小に通っていて、あの日は、小学校で友達になった近所の女の子の家に妹と遊びに行っていた。家の中にいたが飛行機の音がうるさく、「敵機かな、それとも味方かな」と話していたとき、突然ドーンと音がして家が大きく揺れた。友人姉妹と四人で近くの防空壕(ごう)に逃げ込むと母親が迎えに来てくれ、妹と家に戻った。
家は全壊ではなかったが、窓ガラスが吹き飛び、屋根裏の土や壁土がぼろぼろと落ちていた。幸い家族はけがをしておらず、三菱電機長崎製作所に勤めていた叔父も無事戻ってきた。
しばらくすると、市街地から自宅裏の山を目指してぞろぞろと人が歩いてきた。見ると、着物は焼け、髪の毛は縮れ、肌は赤くただれた人ばかりだった。その中にいた若い女性が「赤ちゃんが水を欲しがるのでお水をください」と家に来たが、抱かれた赤ちゃんを見ると、首から上がなかった。応対した母親が「見てはだめ」と言ったのでその後は分からないが、その光景は今でも頭から離れない。
原爆投下から数日後、叔父とともに浦上方面に家を支える木材や炭がないか探しに行った。途中、傷口にうじ虫がわいた人や死体をたくさん見掛けたが、不思議と「怖い」という感情はなかった。生きることに必死で、それ以外考えられない状況だったのだと思う。
当初は「大きな爆弾が落ちた」という認識しかなかったが、放射線の影響があると知ると、子どもへの影響がとても不安だった。妊娠し出産したときは、すぐに「指は五本あるか、手足はきちんとついているか、目や口に異常はないか」と体中を確認し、異常がないと分かったときは胸をなで下ろした。
<私の願い>
今の核兵器の威力は原爆とは比較にならないほど強いと聞く。絶対に開発や保有はやめてほしい。戦争は人殺し。恐ろしさをきちんと語り継いでいかなければと思う。