あの日のことは、忘れようとしても忘れられない。ダンテの神曲にある地獄篇、源信僧都の往生要集に表現されている「地獄」そのものを目にしたのですから。
当時、私は十九歳。県立高等女学校卒業後、浦上天主堂近くの自宅から三菱兵器製作所大橋工場に通勤していた。あの日は雲ひとつない青空が広がり、せみ時雨を聞きながらの出勤だった。
空襲警報が解除され、事務所一階の窓際で午後の仕事の打ち合わせをしていた私の目に突然、ピカッと真っ白い光が飛び込み、とっさに手で目と耳を覆い床に伏せた。よく「ピカドン」と言うが、ドンという音は聞こえなかった。どのくらい時間がたったのか分からない。気が付くと辺りはシーンと静まり返り、真っ暗だった。
幸いにも私は背中に軽傷を負った程度。同僚の声を頼りに必死に外へ出ると、出口には崩れた二階の屋根があった。外は見渡す限りがれきの山で、護国神社の鳥居が燃えていた。
ぼうぜん自失の状態で、同僚ら数人とただただ避難する集団の後を追うように歩いた。行き交う人は無表情で焼けただれた両手を前に差し伸べ、まるで幽霊のよう。トマトの皮をむいたように皮膚がはがれ、両目が飛び出ている人も。
あの日の夜、私たちは住吉の竹やぶの中で野宿。爆心地周辺は燃え盛る炎に包まれていた。翌日、遺体をかき分けるように急ぎ足で自宅に向かったが、爆心地周辺は規制で行けなかった。十一日になってようやく自宅に着くと、がれきの中から焼け死んだ母と弟を見つけた。近くの防火用水には水を求めて亡くなった人たちが重なりあっていた。
その夜、西山町の親せき宅で、右足に大けがを負った妹と再会できたが、数日後、父親は遺骨となって帰ってきた。妹は学徒動員で塗装工、父は航空機魚雷の製造で、私と同じ三菱兵器製作所大橋工場で働いていた。あの日から一カ月。三人の家族の死にも涙ひとつこぼれない、喜怒哀楽の感情が全くない日々が続いた。
(福岡支社)
<私の願い>
今、憲法九条を見直す動きがある。私たちは国家総動員法など戦時下のひとつの法律がいかに国民生活を変え、多くの人を死に追いやったかを体験した。生きている限り、世界平和と核兵器廃絶を強く訴える活動を続けたい。