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私の被爆ノート

家の建具の下敷きに

2005年2月10日 掲載
本浦 義昭(73) 本浦 義昭さん(73) 爆心地から2.2キロの稲佐町1丁目で被爆 =新上五島町有川郷=

当時十三歳で、長崎市内にあった旧制陸海軍予備学校の二年生。稲佐町一丁目の自宅に親子三人で暮らしていた。

あの日は近くの同級生七、八人のグループでいつものように登校していた。午前七時四十分ごろだったと思うが、市役所前で警戒警報のサイレンが鳴り、市営交通船に乗って帰宅した。自宅で同級生と雑談している途中空襲警報が出て、近くの防空壕(ごう)に避難した。

間もなく警戒警報に変わり、その後解除されたので学生服を脱いで同級生たちと自宅の軒先にいた。すると、「ブーン」という爆音が聞こえ浦上の方向を見たら、ぎらぎら光る白いものが落ち、ものすごい閃光(せんこう)が走った。そしてすぐに「ドーン」というごう音が響き渡り、家の建具の下敷きになった。砂ぼこりが舞い、目を開けたら真っ暗で土の中かと思った。

無我夢中で逃げ、近くの防空壕に走った。途中、崩れたれんが塀に下半身を挟まれ、「助けてくれ」と叫ぶ人を見た。それから意識を失ったのか、気付いたら翌朝になっていた。

防空壕にいた近所の友人は顔が黒く腫れ上がり、針を通して水を出してやった。

数日間防空壕にいた。母がたまたま小長井町の親類宅に食料を分けてもらいに行っており、父と二人でそこに向かった。午前十時ごろ出発、ひたすら歩いた。焼けた電車などがあり、浦上駅と長崎駅の間にあったガス会社のタンクが燃えていた。その前の道路がとても熱かった。

大橋で見た、性別さえ判明できないほどに焼けただれた人たちが川の水を求めてうごめいている姿を、今でも忘れられない。浦上駅周辺は、死んだ牛や馬、人間の遺体が道端にごろごろと転がり、ものすごい惨状だった。諫早市の父の知人宅に寄り、小長井町に着いたのは真夜中だった。

終戦は長崎市で迎え、その年の十月下旬、母の出身地の有川に引っ越した。翌年、高熱が続き髪の毛が抜けたこともあったが、何とか元気になった。

あの日、一緒にいた同級生たちはその後、全員亡くなった。友人の分まで長生きしたい。
(上五島)

<私の願い>
戦争は悲惨だ。二度と繰り返してはならない。テレビや新聞などで戦争が伝えられるが、犠牲になるのは子どもなど弱者だ。あの姿を見ると涙が出る。核兵器を完全になくさなければならない。

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