当時四歳の私は毎日ビー玉やメンコ遊びに夢中だった。父はその年の四月に病死。母と姉二人、弟の五人暮らしで生活は苦しかった。
新しいメンコを買ってもらえるわけはなく、近所の友達との勝負にはめっぽう強かった気がする。家には私一人がすっぽり入る茶をいる釜があり、”戦利品”を持って遊びから帰ると、部屋に立ち込める香ばしいにおいが好きだった。
「Bが来た、Bが来た」。米軍の爆撃機を家族や近所の人はそう呼んだ。「逃げろ、隠れろ、伏せろ」。条件反射で早口に言い合い、素早く押し入れなどに潜り込んだ。夜になると闇をつんざく爆音と、機影を求めて空をさまよう地上からの看守灯の光が恐怖心をあおった。底知れぬ深くどんよりとした感覚といおうか。
あの日の午前中何をしていたのか、その瞬間のこともよく覚えていない。ただ暗かった。後で姉に聞くと、棚から落ちてきた茶釜が体を覆い、守ってくれたという。けがはなく、外に出ると巨大な黒い雲が見えた。
家族も無事だった。近くの防空壕(ごう)で一晩過ごし、夕方から約十二キロ先の母の実家がある長与に向かった。どこを目指しているのか、傷だらけでさまよい歩く人が目についてつらかった。地面は燃えるように熱く、馬車を引いたまま息絶えている馬に足がすくんだ。この光景がどこまでも続く気がした。
長与に着いて一週間後に歯茎が真っ黒になり、倒れた。脱水症状になり家族は「駄目かもしれない」とあきらめかけたという。たまたま医者が避難していて一命を取り留めた。もし、今会えることならお礼が言いたい。
四十代になって目まいや耳鳴りに悩まされたが、今は比較的健康でいる。孫にも恵まれた。その孫が先日、飛行機を見て「爆弾は積んでいないと」と尋ねた。びっくりすると同時に、「Bが来た」ときのどんよりとした感覚と、イラク戦争が子どもに与えている影響を思った。
(東彼)
<私の願い>
核兵器だけは子や孫のためにも絶対に使ってもらっては困る。原爆がもたらした苦労は私たちだけで十分だ。