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私の被爆ノート

「この世の終わりか」

2005年1月27日 掲載
松本 博(75) 松本 博さん(75) 爆心地から2.2キロの長崎市稲佐町1丁目(現在の旭町)の鉄工所で被爆 =西彼西彼町上岳郷=

当時十六歳。旧制瓊浦中四年だった私は、学徒動員で三菱長崎兵器製作所大橋工場に通い、航空魚雷を造っていた。

八月九日。前日に上司とささいなことで口論になり、工場に行く気になれなかった。父は稲佐橋近くで鉄工所を経営。せん鉄を溶鉱炉で溶かし、主に「焼き玉エンジン」を造っていた。父の鉄工所は海軍の指定工場になっており、「大橋に行かなくても父の工場ならしかられることはないだろう」と考え、この日は朝からそちらに向かった。

工場内は暑かったので、裸で作業をしていた。溶鉱炉に火を入れるための準備をしていたところ、突然ピカッと光った。「焼夷(しょうい)弾だ」と思い、そばにつるしてあったシャツを急いで着て、無我夢中で逃げ出した。工場は倒れかかり、二階の事務所にいた母は、水道管を伝って下りてきた。

取るものも取りあえず、旭町の自宅に向かった。昼間なのに辺りは真っ暗で、見渡してみると町は一面がれきの山。道すがら、七、八人が民家の消火活動をしているのが見えた。原爆とは知らなかったが、「ただ事ではない。この世の終わりか」と感じた。

命からがら自宅に戻ると、屋根は吹き飛んでいたが、原形はとどめていた。自宅には妹がいて、「大丈夫だったか」と無事を確かめ合った。その後、言い知れぬ不安を感じながら防空壕(ごう)に避難した。

家族四人とも、何とか亡くならずに済んだ。しかし、原爆の影響なのか、父は三年後に他界。自分も健康への不安は完全には消えない。

もしあの日、大橋工場に行っていたら自分も原爆の犠牲になっていただろう。父の工場でも、溶鉱炉に火が入った後に原爆が落ちていたら、命はなかったかもしれない。「よく助かったものだ」と数奇な運命を感じる。そして、「あんな体験は二度としたくない」と強く思っている。
(西彼中央)

<私の願い>
戦争で犠牲になるのはいつも弱者。戦時中は「軍人にあらずは人にあらず」という世の中だった。最近、若い人たちが署名活動などを通じて平和の尊さを訴えているのを見て、心強く感じる。もう二度と、悲惨な戦争を繰り返してはならない。

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