当時、私は五歳の幼稚園児だった。家族は父母と姉、二人の兄、末っ子の私の六人。旧制長崎中学の教員をしていた父は、研修か何かで諫早に単身赴任していた。
朝食を終え、次兄と近所の友達六、七人で近くの山にセミ捕りに出掛けた。高さ二、三メートルの木に上り、セミを捕っていると、上空を飛行機が何機か飛んでいった。当時、大村に航空基地があったので日本の飛行機だと思い「おーい」と手を振った。
自宅にいた長兄が「警戒警報が出たから帰ってこい」と呼んだらしく、次兄が「帰ろう」と私たちに声を掛けた瞬間、「ドカン」という爆音と衝撃で木から落ちた。怖くて泣くこともできなかった。逃げる途中、金比羅山の方角にきのこ雲が見えた。
自宅に逃げ帰ると、瓦が散乱し入り口付近のガラスがすべて割れていた。縁側に置いてあった私の机も庭に吹き飛んでいた。夏で上半身裸だった長兄の背中にガラスが刺さり、血が出ていた。幸い家屋倒壊には至らず、台所で昼食の準備をしていた母と姉も無事だった。母は「新型爆弾が落ちた」と言っていた。
それから、私たちは自宅から約二十メートル離れた防空壕(ごう)に身を寄せた。昼すぎに壕の外に出ると、辺りは厚い雲に覆われ真っ暗だった。
夕方近くになると、市街地の方から被災した人たちが逃げてきた。顔から血を流し、包帯を巻いた人たちで壕はいっぱいになった。
翌日昼ごろ、父が諫早から徹夜で日見峠を自転車で越え、帰ってきた。数日長崎にいたが、諫早に疎開しようということになり、水筒とリュックを手に蛍茶屋から軍のトラックの荷台に乗った。
トラックが日見トンネルに差し掛かると、トンネルの向こうまで歩くよう指示された。真っ暗なその中には、被災した多くの人たちが寝転がっていた。けがをして歩けない人たちが水を求めて私にすがり、水筒を奪って勢いよく飲んだ。トンネルを抜けるまでとても長く感じた。
<私の願い>
日本は米国に追従し過ぎている。今年五月に核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開かれるが、核保有国に一斉廃絶を求めるため日本はリーダーシップを発揮すべきだ。