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私の被爆ノート

1人も助からなかった

2005年1月13日 掲載
尾上サチヱ(75) 尾上サチヱさん(75) 東彼杵郡宮村(当時)の国民学校で看護活動に従事 =佐世保市長畑町=

東彼杵郡宮村(現佐世保市宮地区)役場の十六歳の若手職員だった。役場で手洗いをしていたら、小窓の外がピカリと光った。驚いていたが、翌日の八月十日、「長崎に恐ろしか大型爆弾の落ちた」と聞いた。その日から、遠くで落ちたはずの原爆の被害を目の当たりにすることになった。

十日出勤すると、長崎から列車で運ばれた多数のけが人が南風崎駅で降ろされ、役場近くの長崎宮村国民学校の土間に寝かされていた。すぐさま看護に当たった。約四十人のうちほとんどが二十歳代前半の若い人。皆ぐったりし、はだしで、ガラスの破片が顔や頭いっぱいに刺さっていた。耳がそげた人もいた。

若手職員ばかり四、五人がかりで足を洗い、手をふき、水をやり、おかゆを口に運んだ。顔だけはガラス片が埋まっていて、ふくこともできない。包帯を熱湯に漬けると、うじがもみ殻のように浮かんできた。それを川に流したときのおぞましさといったら…。

土間には扇風機もなく、看護に手の施しようがない。寝かされた誰もが息をするので精いっぱい。名前も住まいも、何を聞いても一言もなく、うめき声だけ。「南風崎駅には症状が軽い人が運ばれた」と聞いたが、とんでもない。痛み、疲れ、空腹が重なり、時間もたっている。毎日二、三人ずつ亡くなっていった。

十日ほどたったころか、生き残ったわずかな人たちは少し症状が良くなり、役場の前の長いすで夕涼みするようになった。仕事の事務にも追われていた私は、夕方になると彼らと顔を合わせ「さよなら。またあした」とあいさつした。

ところが、朝になり出勤すると、前日あいさつを交わした人が一人二人と亡くなっていく。搬送されてきた人は、とうとう一人も生き残らなかった。地元の人たちがだびに付した。

約一カ月、「被爆した家族を捜している」という人たちが役場を訪れてきた。「あちこち捜したが見つからず、ここが最後」という。だが、名前も住所も聞けずに終わり、何ら答えようがない。胸が締め付けられ、本当につらかった。
(佐世保)

<私の願い>
ニュースで新潟県中越地震やスマトラ沖地震の被災地を見ると、人が流されたり折り重なったりして、被爆者を看護した様子と重なる。胸の詰まる思い。人生を壊されることのないような平和な世界を願う。

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