当時、鶴鳴女学校一年生で十三歳。八月九日は朝から警戒警報が出ていたので平戸小屋町の自宅を出て、姉やいとこ、近所の人たちと稲佐山のふもとにあった避難小屋にいた。周囲は木が茂っており、十数人がいたと思う。
いとこは二つ上の長崎市立女学校三年で、学徒動員先の工場に戻ろうとして避難小屋を出た。わたしも自宅に置いていた縫いものを取りに戻ろうと一緒に出たが、飛行機の爆音がしたので小屋に引き返した。その直後に光線が走った。いとことの距離は五メートルほどだったと思う。後で分かったが、いとこは浦上の方を向いた半身にひどいやけどを負った。わたしは避難小屋の横のがけが遮へい物となり熱線を遮ってくれたのか無傷だった。
避難小屋が燃えだし、近くの防空壕(ごう)に移ったが、やけどを負った人たちが入ってきて壕の中は異臭が充満した。その夜、親と一緒に避難先の高台から大波止方向を見たら炎がとろとろと見え、すごい景色だなと思った。暗いながらも自分の周りの草木がちりちりに焼けているのが分かった。
疎開することになり十日の午後、両親と姉、姉の子で五歳だったおい、郷里の人と六人で、両親の里の雪浦村(現西彼大瀬戸町)に向かった。夜はちょうちんを提げて歩き、式見の寺に立ち寄った記憶がある。わたしはおいを背負って歩いたが、道すがら聞いたカエルの鳴き声やホタルの光が印象に残っている。歩いているときは防空ずきんに長袖姿だったが、暑かったという記憶はない。ただ空腹がつらかった。雪浦に着いたとたん「静かでのんびりしているなあ」と思ったことを覚えている。
避難小屋の前でやけどを負ったいとこは、飽の浦小学校に運び込まれた後、平戸小屋の自宅で治療を受けていた。被爆から二週間後に会ったが、「あんたと一緒に逃げていればよかった」と泣いた。まともな薬もなく、やけどにはウジがわき、ピンセットでつまみ出すたびに「痛い」と泣かれて看病する方も大変だったらしい。
夫の兄と姉も被爆。瓊浦中三年で学徒動員先の三菱兵器工場で被爆した兄は、一週間後に神浦村(現長崎市外海地区)の実家で亡くなった。
(大瀬戸)
<私の願い>
イランやイラクなどの戦争を伝えるニュースを見ていると、戦争を直接体験している人間として悲しくなる。戦争のない平和な世界になってほしい。個人的には、いとこの医療特別手当認定の実現を願っている。