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私の被爆ノート

地獄のような光景広がる

2004年12月16日 掲載
中島 省吾(69) 中島 省吾さん(69) 爆心地から2.2キロの長崎市川平町で被爆 =東京都北区=

当時、私は西浦上小の五年生、十歳だった。

暑かったあの日、近所の友達五、六人と近くの川で泳いでいた。川の両岸は木立に囲まれ、夏の日差しが葉っぱの間からこぼれていた。

水に入っていた時、ピカッと、突然ものすごい光が走った。木立を襲う爆風。上を見たら、黄色い砂ぼこりが舞い上がり、薄暗くなっていた。何が起きたか分からず、みんなパンツ一つで、無言のまま駆けだした。

私は、当時、仮住まいがあった川平町方面に逃げた。がれきを乗り越え、夢中で駆けた。仮住まいにたどり着いた時は、はだしの足が傷だらけで、血が流れていた。

元の実家は坂本町の一本足鳥居のそばにあり、親類が周辺に住んでいた。原爆が落ちて二、三日たってから、父親と一緒に親類を捜しに出掛けた。

坂本町方面へ向かうが、どこもがれきの山で、道はない。父親と無言で歩いた。黒焦げの遺体があちこちに転がり、まだ煙が上がっていた。歩きながら、言葉にできない恐怖に襲われた。瀕死(ひんし)の人から「助けてくれ」と声を掛けられたが、恐ろしくて避けて通った。今、考えると本当に申し訳ないが、子ども心に恐怖心が先に立った。

大橋付近の浦上川には、焼けただれてボロボロになった人たちが、水を求めて大勢集まっていた。ただれた乳房をさらし、赤ん坊を抱えた女性。川べりで、水に顔を突っ込んだまま死に絶えた多くの人。地獄のような光景だった。

国防服を着てゲートルを巻いた人が、先にかぎの付いた棒で遺体を集めていた。魚市場で魚を引きずるような格好だった。遺体はいかだのように組んだ古木の上に重ねて火葬していた。何とも言い難いにおいは忘れられない。

坂本町辺りは廃虚となっていた。父親が、親類の家と思われるがれきを捜した。いとこ三人が、がれきの中で寄り添うように倒れていた。黒焦げで、姿形はほとんど分からなかった。
<私の願い>
爆心地辺りを訪れると、今でも背筋がズーンとする。原爆の惨状は忘れられない。戦争は悲惨である。二度と起こしてはならない。核兵器は絶対に廃絶すべきだ。長崎や広島の被爆地を中心とした核廃絶運動に期待する。

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