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私の被爆ノート

あちこちで遺体火葬

2004年12月9日 掲載
小原 一男(77) 小原 一男さん(77) 入市被爆 =五島市福江町=

五島の旧富江町の小学校、東京の中学校を卒業後、海軍甲種予科練習生として土浦航空隊に入隊。横須賀の海軍通信学校に派遣され、特攻隊を志願。辞世の句まで書いたが、出撃はできなかった。鹿児島県の国分、串良を経て第二国分航空隊へ。海軍二等飛行兵曹で十八歳だった。

八月六日か七日ごろから「ナガサキヨイマチカミノマチ 8ガツ9ニチハハイノマチ」などのアメリカの放送を傍受。広島と同様の新型爆弾投下を予期した。八月九日、長崎の壊滅を知り、敗戦が間近であると感じた。

終戦後の十六日に帰郷証明書を受け取り、十八日に汽車で長崎に入市。五島行きの船が出港するまでの三日間、偶然出会った先輩の憲兵と、被爆地を毎日歩き回った。見渡す限り家屋が倒れ、道路はがれきばかり。あちこちで遺体を廃材で火葬する情景もあった。二十日夜、船は遺体を納めた無数の棺おけを乗せて出港。古里の富江町に翌朝着いた。父は既に亡く、八人兄弟の長男として、母と農業で貧しい暮らしを支えた。

元来、屈強な体だったが、腎臓がんや心臓の病などで幾度も大手術を経験。生活苦の中でイモの仲買い、運搬、古物商、金融業などあらゆる仕事に取り組み、所有する土地も売りながら家族をどうにか養った。

大腸がんで入院した一九八六年ごろ、入院先の同部屋の患者から被爆者手帳について知らされ、自分が被爆者であることを理解した。直接被爆ではなかったので、それまで認識がなかった。認定には被爆を証明してくれる二人の証人が必要で、記憶をたどった。

終戦後に一緒の船で帰郷した後輩は、証言を快諾。被爆地を一緒に歩き回った元憲兵の居所も調べた。埼玉県で捜し当てたが、脳の手術後で言葉が話せず、証人として認められなかった。

別の証人を捜しあぐねていたころ、第二国分航空隊から帰郷の際に鳥栖まで汽車で一緒だった仲間が東京で見つかり、証言してくれた。すでに被爆から四十年が経過し、幾多の大病に苦しんだ末の被爆者手帳取得だった。

その後も前立腺がんを患い、病に振り回された人生だった。だが今に至るまで、国から除隊や兵役解除の連絡さえない。死を覚悟した青春時代を経て、私の大東亜戦争はまだ終わっていないと感じている。
<私の願い>
人類は一日も早く全世界の核兵器を処分すべき。原発もテロリストに狙われる時代。平和利用も含めて本来、核は使うべきではない。不便になっても昔の暮らしに戻した方がずっといい。

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