長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

人影なく生きた心地せず

2004年12月2日 掲載
田中 良彦(75) 田中 良彦さん(75) 爆心地から3.2キロの長崎市飽の浦町1丁目(当時)で被爆 =大村市諏訪2丁目=

原爆に遭い、本当に生きた心地がしなかった。当時の体験は今でもあまり思い出したくない。

幼いころに父母と別れ、一九四五(昭和二十)年は伯父一家と長崎市豊後町(現在の興善町)に暮らしていた。同年三月に長崎市立商業学校を卒業。在学中から学徒動員で、市内などの数カ所の軍需工場で働いており、そのまま卒業後も三菱重工長崎造船所で会計事務の仕事をしていた。

原爆が投下された八月九日、天気がとても良かったので、事務所の外に出て休憩していた。突然、空が「ピカッ」と光った。「なぜこんな天気のいい日に稲光がするのか」と思っていると、「バーン」と大きな音がした瞬間、周囲が真っ暗になった。

「伏せろ」という叫び声がどこからか聞こえたので、とっさにその場で地面に伏せたが、「死んだ」と思った。十分ほどたっただろうか、「退避」との声が聞こえ、目を開けると周囲は元の明るさに戻っていた。

けがはしておらず、近くの防空壕(ごう)に避難することになった。対岸に見えた県庁の屋根が燃えていた。一、二時間後に職場に戻るよう指示された。戻った室内では、書類棚などが全部倒れていた。

その後、「帰れる者は家に帰れ」と言われ、伯父の家に戻ることにした。家の付近は火災が起きており、人影がまったくなく、怖い思いをしながら通り抜けた。家は留守で、戸が爆風で全部外れていた。

しばらくしてから戻ってきたいとこ(伯父の二男)と一緒に、あらかじめ避難先に決めていた山手の立山地区へ向かった。避難先で伯父の家族と合流したが、伯父はいなかった。その夜、眼下の市街地では火災が続き、家も燃えてしまった。「この先どうなるのか」と不安に思った。

翌日、いとこと一緒に伯父を捜しに行くことにした。保険外交員をしていた伯父は九日、爆心地に近い現在の城山町付近にいたらしい。途中、立ったまま黒こげになった馬を見た。何ともいえない悪臭で具合が悪くなり、結局途中で引き返した。伯父は見つからなかった。どこで亡くなったのかと思うと悲しかった。

<私の願い>
家も命も、何もかも灰になってしまう戦争はもうこりごり。イラク戦争でもそうした思いが募る。今のような平和が一番いい。そのためにも核兵器をなくしてほしい。兵器があるから戦争をする。世界の国々にそれを訴えたい。

ページ上部へ