寺井 眞澄
寺井 眞澄(74)
寺井 眞澄さん(74) 爆心地から1.3キロの長崎市西郷(当時)の照円寺で被爆 =長崎市錦1丁目=

私の被爆ノート

水を求める断末魔の声

2004年11月25日 掲載
寺井 眞澄
寺井 眞澄(74) 寺井 眞澄さん(74) 爆心地から1.3キロの長崎市西郷(当時)の照円寺で被爆 =長崎市錦1丁目=

旧制県立瓊浦中(竹の久保町)在学時の一九四五年四月、学徒動員により、茂里町の三菱長崎製鋼所で魚雷の外装を磨く仕事に従事するようになった。

だが、下宿先の伯父宅(岩川町)が八月一日の空襲で全壊した後は休暇をもらい、いとこが住職をしていた同市西郷(当時)の照円寺に仮住まいすることに。寺には、佐世保海兵団の一箇小隊約八十人が、三菱兵器大橋工場(文教町)の防空守備のため寄宿していた。

八月九日朝、警報が発令されたので寺の敷地内の防空壕(ごう)に避難した。何事もなく解除になり、壕から出て、庫裏の軒先で一息ついていた。突然、目がつぶれるような強烈な光を感じその場に伏せたが、爆風で全身にショックを受け気を失った。われに返った時は、倒壊した屋根材の下敷きになっていた。

幸いにも、かすり傷程度で済んだ。近くに爆弾が落ちたと直感し、二発目、三発目を予想して、しばらく下敷きの状態でじっとしていた。

街の騒音が気になり始め、抜け出して眺めると大橋工場は火の海。住吉方面でも火の手が上がり、黒煙が空高く舞い上がっていた。炊事場にいたはずの四、五人の兵隊の姿が見えない。寺も延焼するのではと思い、裏の岩屋山へ一人で走って逃げた。猿や野犬がいると聞いていたので恐怖は絶頂に達していたが、爆発音が聞こえる中、木陰に身を寄せ隠れていた。

日が暮れるころ、寺の近くの川まで戻ると、顔を水の中につっこみ動かない人や、焼け焦げ裸で人間とは思えぬ形相の人、川へ入ろうとして息絶えた人たちが岸に折り重なっていた。寺へ続く狭い路地は、大勢の負傷者と介抱する人でごった返し、「水を、水をください」と断末魔の声が耳を離れなかった。

寺は火災を免れたが建物はすべて倒壊。住職の母と二人の子ども、それに別のいとこ三人の計六人が爆死した。兵隊のうち約六十人が帰らぬ人となった。

八月下旬、突然の高熱や下痢に苦しんだが、九月上旬には復学。その翌日にあった中学の合同慰霊祭で、死没者の名簿に私の名前が記されていた。

<私の願い>
世界各国が核開発にしのぎを削り、国連の動きは有名無実になっているように見える。一日も早く、国連が中心となり、核のない世界平和を築き上げるよう求めたい。「核ゼロの 日までは朽ちぬ 千羽鶴」

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