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私の被爆ノート

重なって息絶えた人々

2004年11月18日 掲載
永野 正治(81) 永野 正治さん(81) 爆心地から1.5キロの三菱長崎兵器製作所茂里町工場で被爆 =南高愛野町乙=

被爆して長い年月がたち、「あの日」の記憶も薄れてきたが、被爆後の長崎の悲惨な光景は今でも目に焼き付いている。

愛野町で生まれたが、徴用で十六歳のころから三菱長崎兵器製作所茂里町工場で魚雷の旋盤工として働いた。徹夜も多く休みなく毎日働き続けた。

「あの日」は朝から出勤し、普段通り仕事に励んでいた。被爆の瞬間は全く予期せぬ出来事なだけにうまく説明できないが、見て感じた様子をありのまま伝えたい。

突然、窓から強い光が差し込んだと思った瞬間、ズシーンととてつもなく大きな地響きがした。私はとっさに製作台の下に潜った。何が起こったか全く分からず「なぜ空襲警報が鳴らなかったのか」と思ったが、突然の出来事にただ動揺していた。辺りも静かになり、とにかく逃げることだけを考え、銭座町にある防空壕(ごう)へ向かった。パニック状態でもあり、製作所の惨状や外の様子はあまり覚えていない。

防空壕は避難者でいっぱいだった。夕方、空腹になり食事を取ろうと寺町にある三菱の食堂に行くことにした。幸いにも目に見えるけがは右ひじのかすり傷程度。にぎりめしをもらい一夜を過ごした。

次の日、無事だった製作所の同僚数人と、いなくなった友人を捜すために大橋方面に向かった。その時の光景が忘れられない。

主要な道路には無数の死体があり、とても歩ける状態ではない。電車通りを選んだが、横転した車両の下敷きになったり、車内でも多くの人が重なり合って息絶えていた。道端にかけてあるむしろを取ると、出産で子どもの体が半分出たまま死んでいる女性や、気がふれて意味不明の歌を大声で笑いながら歌っている女の人もいた。友人は大橋の防空壕の中にいたが、体中のやけどがひどく助けられなかった。

戦後、帰郷して理髪業を営み、五人の子どもを養うため無我夢中で働いた。十年前の原爆の日、同じく被爆した妻と初めて平和祈念式典に参列したときは、当時のことがよみがえり、涙が止まらなかった。
(小浜)

<私の願い>
「あの日」の惨状を忘れることができず、子どもたちに「こんなことがあっていいのか」とよく話して聞かせた。世界では紛争が絶えず、悲惨な光景は今でも繰り返されている。人々が憎しみ殺し合わない世の中を祈るばかりだ。

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