東彼川棚町の青年学校を卒業後、大きな農家だった実家を手伝いながら、海軍の施設を建設する工事に携わった。岸壁の整備工事をするために、海中で作業する潜水士の命綱を持つ仕事などをしていた。
その後、川棚魚雷艇訓練所ができ、七つボタンの制服を着た予科練生たちが多く見られるようになった。大村湾に目標の船を置き、「震洋」という特攻艇で攻撃する訓練をしていた。
次第に戦況は厳しくなった。当時、実家を含め七軒の大農家があったが、付近に七個の爆弾が落とされた。実家でも八反の田んぼが爆撃された。今のように機械もなく、一週間ほどかけて稲を植えたのに、朝起きるとそこに田んぼがあったとは分からないような状態になっており、涙も出ないほどに落ち込んだ。
当時は午前五時ごろから畑に出て、十一時ごろ家に帰ってくるのが日課だった。原爆が落とされた日も、帰ってきて家の中にいると、「どーん」という大きな音が聞こえたので、家族で縁側に出てみると、大きな灰色の煙が見えた。「何やろうか。恐ろしか」と話し合った。
その後、地元の消防団や婦人部、青年団などが被害を受けた地域の消火活動や負傷者の救護に当たることになり、三日ほどたったころ、川棚の工員養成所に運ばれてくる負傷者の救護をした。
広い板張りの部屋に、足の踏み場もないほどに負傷者が運び込まれた。三百人ほどいたような気がする。ふんどしもパンツも着けていない裸の状態。体全体が焼けただれ、傷にはうじ虫が付き、言葉では表せないほどかわいそうだった。
「水をくれ」と求められても、「負傷者に水をあげてはいけない」と言われていたのであげられず、「おしっこをしたい」と言うので取ってあげようとしても出ず、どうにもできなかった。
腰から下が動かないという大学生もいた。満足な治療ができず、消毒剤を付けたり、体をさすってあげるぐらいしかできなかった。室内はむかむかするようなにおいが立ち込め、家に帰っても、ご飯が食べられなかった。
救護には地域ごとに交代で当たっていたので、数日後にまた行ったときには、すでに亡くなっている人も多かった。
<私の願い>
原爆は罪のない市民を殺し、傷つけた。被爆した人の様子はどんなに言っても伝わらないほどに、惨めでかわいそうだった。このようなことが二度と起きないようにしなければならない。