一九四五年当時は神奈川県厚木市の海軍厚木航空隊航空整備課に所属。七月に飛行機整備高等科を卒業し、南方戦線への派遣を待つ身だった。新型爆弾と呼ばれた原爆が広島に落ちたのを知ったのは八月八日夜。落下傘につり下げられた原爆が広島に落ちたと、上官が図で解説。相当の死傷者が出たと告げた。後日、長崎原爆の説明もあったが、被害状況は分からず、想像もできなかった。
十六日、航空隊司令が終戦詔書を読み終わった直後、徹底抗戦を主張する一部の兵が発砲。銃撃戦が約三十分間続き、死者も出た。十七日には武装解除のため戦闘機のプロペラを外していた私たちに、若い兵士数人が「燃料を積んで、飛ばしてくれ」と懇願。飛び立った兵士は翼を振るバンク飛行で感謝の気持ちを表現した後、相模湾に次々と突入し命を絶った。
復員は二十日。「負けて帰ってくるな」と言った父に合わせる顔がなかったが、最終列車で実家を目指した。夜中、家の前で私の帰りを待っていた父に「ただいま帰りました」と報告すると、「ご苦労じゃった」と声を掛けてくれ、思わず大泣きした。
二十一日朝、行方が分からない幼なじみを捜すため列車で長崎に向かった。道ノ尾駅付近から車窓の景色は焼け野原になっていた。列車が止まり「ここはどこ」と聞くと「浦上駅」と仲間が答えた。ホームだけが残り、駅舎は跡形もなかった。幼なじみは駅の真向かいにあった製鋼所で働いていたが、建物は崩れ、どこから手を付けていいか分からなかった。
がれきをあさっていた私たちに、何人もの負傷者が「水を下さい」と話し掛けてきた。浦上川まで水をくみに行こうとしたが、警察官から「水をやってはいかん」と止められた。負傷者は水を口にした途端、息を引き取ってしまうからだという。焼けただれた皮膚を引きずり、水を求めた負傷者は今も夢に出てくる。水をあげられなかったことが悔やまれる。
原爆投下から十日以上たっていたが、長崎駅前では車を引く馬の死体が何頭も放置されたままだった。死臭が漂う中、必死に捜した幼なじみは、今も行方が分からないままだ。
<私の願い>
空襲で人が死んでも「明日はわが身」と人々は涙を流さなかった。そんな異常な感覚を生み出す戦争は、繰り返してはならない。剣道の指導で交流している子どもたちには、人の痛みや悲しみが分かり、礼節のある大人に育ってほしいと思う。