井上 房江
井上 房江(82)
井上 房江さん(82) 爆心地から1.8キロの長崎市幸町で被爆 =諫早市小豆崎町=

私の被爆ノート

火の海を母の元へ

2004年10月28日 掲載
井上 房江
井上 房江(82) 井上 房江さん(82) 爆心地から1.8キロの長崎市幸町で被爆 =諫早市小豆崎町=

諫早市天満町の出身。一九三九年から三菱重工長崎造船所に勤務していた。被爆当時は二十三歳で、長崎市稲佐町に母と二人で暮らしていた。

入社して六年間、雨の日も雪の日も通い、無遅刻無欠勤で表彰状をもらった。「殉国の乙女」といわれ、国のために自分は尽くしているという思いだった。残業のときは、母がちょうちんを手に迎えに来てくれた。

戦局が厳しくなるとサイレンの音が聞こえるたびに、防空壕(ごう)に逃げ込む日々が続いた。こんな状況がいつまで続くのだろうかと心配だった。飽の浦工場勤務を経て幸町工場に移り、造機検査課で事務を担当していた。

あの日の午前十一時二分、幸町工場の職場で爆音が聞こえてきたので「あー、敵機か」と思って窓を開けた。その瞬間、閃光(せんこう)が走り、気付いた時は倒壊した建物の下敷きになっていた。「助けて、助けて」と叫んだが、反応はなく「こんなにして死んでいくのか」との思いが頭の中をよぎった。

しばらくすると、「ここに足先が見えるぞ」と言う声が聞こえた。四、五人ががれきを取り除いて引きずり出してくれた。体にほとんどけがはなかった。その人たちに深々と頭を下げお礼を述べたが、同じ職場で働いていた技師ら五人はいずれも帰らぬ人となっていた。

母の元へ向かうことにし、火の海をかき分けて進んだ。工場周辺の様子は一変していた。建物はすべて倒壊してしまい、見る影もなかった。火薬庫の近くに町内会の防空壕があったが、そこでは「水を」「水を」と傷ついた人が声を振り絞っていた。水槽の近くに息絶えた人が何人もいた。

竹の久保町の防空壕にようやく着いたが、ここも水を求める人や傷ついた人ばかりだった。「お母さん、お母さん」と何度も叫ぶと、奥の方から「ああ、房ちゃん」と声が聞こえ、小柄な母の姿が見えた。お互いの無事を心から喜び合った。

けがはなかったが、三日程度下痢が続いた。体調が回復した後、竹の久保町に転居。三菱を退職することになったので仕事を探していたら町内の人から事務員の職を紹介され、そこで働いて生計を立てることにした。
(諫早)

<私の願い>
私たちがかつて体験したような悲惨なことはもう嫌。世界は平和でなければ。戦争、原爆は二度と繰り返してはならない。核兵器が廃絶され、世界平和が訪れることが一番の願い。

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