一九四五年三月十三日、大阪市浪速区で大阪大空襲に遭い、家を焼け出された。米軍のB29爆撃機が雨あられのように焼夷(しょうい)弾を投下。火のない所へあっち逃げこっち逃げ、奇跡的に家族五人生き永らえた。伯母を頼って長崎に移り住むことにした。
三月二十三日、長崎に向かう途中の肥前山口駅で車両を乗り移る際、父がホームのすき間から線路に転落し、頭を打って亡くなった。
長崎市の飽の浦国民学校近くで生活。食料難に加え、空襲警報が鳴り響く毎日に疲れ果てていた。当時十一歳、同学校の五年生。「あの日」は時津の親せき方に疎開するため、朝から支度に追われていた。
屋外のトイレに行こうと玄関を出たときだった。目のくらむような光がした後、爆風で体が宙に浮き、二、三メートル下のコンクリートの階段にたたきつけられた。「痛い」と叫び声を上げた。何が何だか分からなかった。
家の外壁のトタンなどがはぎ取られ、中に入ると母は「今のは何」と驚き、七歳の弟は腰が抜けたように座り込み、四歳の妹はわんわん泣き叫んでいた。そして母は何も言わず家を飛び出した。
私は弟と妹を置いて外に出ることもできず、家の外で騒ぐ人たちの声に不安をあおられ、怖くて三人で震えていた。夕方になって母が帰って来ると、「今までどこで何してたのよ」とかみついた。母は「浦上川には死体がいっぱい浮かんでいる。長崎中、やけどの人がうめいている」などと惨状を説明したが、その時はまったく理解できなかった。
時津には疎開せず家にとどまり、十五日に玉音放送を聞いた。十九歳で結婚。「原爆に遭った娘にはどんな子が産まれるか分からない」との風評がある中、五人の子を出産したが、みんな元気だった。
今年の夏、孫を連れて初めて長崎原爆資料館に行き、展示資料を通して当時の惨状を知った。資料館をこれまで訪ねなかったのは「原爆のことは見たくも聞きたくもなかった」からだ。
「今は体験を語り継ごうと思えるようになった」と言う。今でも空襲警報のサイレンの音が耳について離れない。
<私の願い>
人生は小説より奇なりというが、私は大阪で大空襲、長崎では原爆に遭った。孫や次世代の人たちがこのような悲しみを味わうことがない平和な世界であってほしい。