川渕千代子
川渕千代子(76)
川渕千代子さん(76) 爆心地から3.2キロの出島町で被爆 =北松吉井町直谷免=

私の被爆ノート

人や馬の死体ごろごろ

2004年10月14日 掲載
川渕千代子
川渕千代子(76) 川渕千代子さん(76) 爆心地から3.2キロの出島町で被爆 =北松吉井町直谷免=

八月九日朝、四年ほど働いた長崎市内の勤め先に退職願を出した。空襲がひどくなり、疎開するためだった。疎開先は、戦況の悪化に危険を感じた父親が前日、自分の生まれ故郷の亀岳村(現在の西彼西彼町)に探しに行っていた。

退職願を出した後、一緒に会社を辞めた同僚二人と東山町にあった自宅に向かった。出島町の三菱会館(当時)前を歩いていると、突然、煙が辺りを包んだ。気が付くと、両脇を歩いていた同僚二人の姿はなく、建物は崩れ落ちていたように思う。今でも二人の消息は分からない。

急な出来事に何が起きたのか分からず、近くの防空壕(ごう)に駆け込んだ。中には大勢の人が避難していた。家族のことが心配で「早く帰りたい」気持ちから立ったまま入り口付近にいた。少しして、とうとう我慢できずに防空壕を飛び出した。男の人に「危ない。出るな」としかられたが、「死んでもいい」と思った。

市民病院前、オランダ坂などを通り、家路を急いだ。飛行機が上空を飛ぶたび、近くの防空壕などに避難し身を潜めた。家に戻るまで四、五回はあったと思う。生きた心地がしなかった。

家に戻ると、建物は原形をとどめておらず、家族の姿もなかった。母親と妹、弟は地元の防空壕にいて無事だった。そこで初めて、背中の左半分と左肩に大きな水ぶくれができているのが分かり、はさみで切り落とし薬を塗ってもらった。気が張っていたせいか、そのときまで気付かなかった。夜、父親が戻った。

十一日朝、五人で亀岳に向かった。両親は鍋やかま、着替えなどを担ぎ、私は幼い弟を背負ってはだしで道なき道を歩いた。やけどで背中が痛かった。黒焦げの人や馬の死体がごろごろ横たわり、電車や馬車が倒れ、建物も崩れ悲惨な光景が広がっていた。

終戦後、兵学校などに行っていた兄二人も戻り、亀岳で家族全員がそろった。二年ほど過ごしたと思う。近くに病院がなく、つばき油をやけどあとに塗り、綿で押さえていた。治るまでだいぶ時間がかかった。その後、北松江迎町に移り、父親と兄二人は炭鉱で働き、私は家事を手伝った。

原爆体験は、口では言えないほどの苦しみがあった。今でも思い出すだけで恐ろしく思う。
<私の願い>
とにかく恐ろしい経験だった。言葉では言い尽くせないほどの苦しみがある。思い出したくないが、二度と同じ過ちを繰り返さないよう体験者が語り継ぎ、強く訴えていく必要がある。戦争をしてはいけない。核兵器もなくさないといけない。

ページ上部へ