その年の四月、長崎市内の私立女学校に就職。六月までは授業もできたが、その後は動員された生徒らの監督のために日々各工場を回っていた。急に三日間の休みが取れたので、両親らの疎開先の南高布津町に行こうと長崎駅まで出向いたが、長蛇の列で切符が買えない。あきらめて下宿に帰ろうと、築町辺りを歩いているところだった。突然、真っ赤な光が走った。「やられた!」と思ったのと気絶したのとほぼ同時。気が付くと周囲に人の姿がまったくなかった。
当時下宿していた親せき宅の小島に戻ると、家そのものは残っていたが、ガラスは割れ、建具やたんすが散乱していた。けがをした腕などに、おばさんと薬を塗り合っていると、県庁付近から煙が上がっているのが見えた。
学校の寄宿舎で暮らす生徒に行方不明者がおり、教師や生徒二、三人ずつ手分けして捜索に出た。救護所の新興善、伊良林の国民学校などを見回ると、全身ただれた悲惨な状態の人々が多数運ばれていた。「水をくれ」と求められたが、「駄目だ」と言われていたので飲ませてあげられなかったのが心残りだ。防空壕(ごう)をのぞくと、赤ちゃんを抱いたお母さんがおっぱいをあげる姿で亡くなっていた。目を背けたくなる光景ばかりだった。結局、生徒を一人も見つけられないまま学校に帰った。
数日後、下宿周辺に悪臭が漂い始めた。近所では米軍の毒ガス攻撃とのうわさが立ち、防毒マスクを着けて裏山に逃げるような生活が続いた。市内のあちこちで遺体を焼くにおいだと分かったのはしばらくしてからだった。
おびえた生活をしているうち、十五日に玉音放送が流れた。翌日、迎えに来た父と再会。持ってきてくれた大きなおにぎりを、戦争が終わったと感じながら二ついっぺんに食べた。そのおいしさは、今も忘れられない。
長崎市は、原爆が落とされるまでほとんど空襲がなかった。警報が鳴っても空を見上げ、爆撃機のB29がきれいな編隊を取りながら北九州方面に向かうのを眺めるほど余裕があった。しかし、あの日を境に道端をトラックが走る音を聞くだけで、体が震えるほどの恐怖感がよみがえるようになった。
<私の願い>
核兵器を廃絶し平和な世界が来てほしいが、イラク戦争を引き合いに出すまでもなく、現実はそうなっていない。人が人を殺し合う戦争は、もう二度とあってはならない。昨年、地元の中学生に被爆体験を話したが、私語もせずに熱心に聞いてくれた。若い世代の取り組みに期待したい。