浦上地区で妻と二人の子を原爆に奪われ、ぼうぜん自失となった三十歳代の新聞記者のことが忘れられない。料亭を改装した下宿屋の三畳間で暮らしていた私と被爆後、同居することになったからだ。
記者は家族の遺骨を納めた骨壺(つぼ)を携えていた。毎夜、私が寝込むのをうかがい、骨壺から骨片や浴衣の切れ端を取り出しては何かつぶやき、むせび泣きしていた。鬼気迫る光景にりつぜんたる思いだった。その後、島原の結核保養所に移り悶死(もんし)―。
私は大村町(現万才町)の長崎新聞社に勤め、会長と社長の秘書をしていた。原爆が落とされた日は二階の社長室の隣で工務局の社員十人の徴用解除を軍に依頼する文書の作成中だった。机を立った途端、ものすごい圧迫感を感じ飛ばされた。建物は壊れ、社長室の机やいすは外に吹き飛んでいた。
階段も爆風でなくなり、どうやって二階から一階に下ったのか思い出せない。動転して、何がなんだかさっぱり分からなかった。私はシャツを着ていたので大丈夫だったが、社員たちは割れた窓ガラス片が体に刺さりけがをしていた。
「病院に連れて行ってくれ」。表に出ると、裸の男がすがりついて助けを求めてきた。一週間前に入社し、長崎の地理に疎いので病院がどこにあるのか分からない。結局、見過ごしてしまった。悪いことをしたと、今でも心が痛む。
目立ったけがも、脱毛や歯茎からの出血などの症状もなかったが、しばらく体がだるかった。被爆した人が外傷もないのに突然死ぬ「ころり病」がはやっていて、いつそうなるかという恐怖心にかられた。
不思議に思う出来事があった。白米のおにぎりとたくあんが大きなざるに山盛り積まれ、主な道路の四つ角に置かれていたのだ。廃虚の町のあちこちにできた急ごしらえの火葬場で、死体を焼くにおいが鼻を突いていたころだった。
当時、白米は「銀飯」と呼ばれ超貴重品。ざるのそばには「一人二個まで」との趣旨が書かれた立て札があったと記憶しているが、独り占めしたり、二個以上を持ち帰る者は一人もいなかった。
誰の好意だったのか。「たぶん、佐賀の人からでしょう」と言う人がいたが、詳細は分からないままだ。
<私の願い>
核兵器を開発し実戦で使用したのは人類史上最悪の犯罪。米大統領には八月の平和祈念式典に出席し、「原爆使用は誤りだった」と世界に宣言してほしい。米国は世界平和のため核兵器を廃絶する責任がある。